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永遠に続く補足メモ

少し前に、マガジンのあとがきで、何か一言発すると、それに対する補足を永遠にしていかなければいけない気がすると書いたのだけど、自分で書いておいて「本当にコレ」と痛感している。
ここ数日私は、自分がなぜアナ雪の記事を書いたのか、ふとしたときにもわっと考えてしまう羽目になっている。

主に、あの記事はやっぱナシなんじゃないか?とか、いや、あれはアリでしょ?とか。
ただ感想を書いたんだという意味では100%アリで間違いない。でもふとした時に「いややっぱナシでは?」がよぎる。あれをアリとするなら、私が肯定する事の出来ないアレもコレもアリになってしまわないか?アレやコレはナシだけど、私のあのアナ雪の記事だけはアリにできる理屈なんてあるだろうか?とか。ナシよりのアリか、アリよりのナシ?とか思っていると、今日聞いていたポッドキャストで「コンテンツに対するイチャモンは、それ自体がコンテンツになりうる面白さがあればアリ」という意味あいの言葉が聞こえてきて「うーん、そう言われるとナシよりのナシ…」になるんだけれども。

何故あれを書いたのか?というと、よくよく考えてみると、正直なところ、日頃のストレスをアナ雪にぶつけてしまったような気がする。というか、日頃の「なんでこんなことになってしまうんだろう?」という疑問が、あの「ぶち込まれる描写」に凝縮されている気がして、繰り返し見ることで、その気が高まって、膨らんで、私の内側に溜まってしまい、ガス抜きをするかのようにあの記事を書いたんだと思う。現になんとなくガス抜きはできたような気がするのだが、それによってまた別のガスが溜まってきているのが今だ。


ある人が(仮にAとする)、違法ではないがアンモラルな事をしたとき、誰かが(仮にBとする)Aを名指しして「これはアンモラルではないか?」と問題提起する。するとそれをみた匿名の不特定多数がBに賛同し、その数がだんだん増えていくと、Aに対する言葉の攻撃が始まる。みたいなシーンを思い起こせるだろうか?ネット上ではよく見るシーンだと思う。
Bに賛同している人と、Aに言葉の攻撃をする人は別人の場合もあれば同一人物の場合もあるかもしれない。多くの人は、Bに賛同するのはアリだけどAに言葉の攻撃をするのはナシだと思っているだろうか?
私は、Bに賛同する人が大多数になることで次第にAに言葉の攻撃をする人が出てくるのではないかと思う。
たとえば言葉の攻撃はAを法的な被害者にもし得ると思うが、その場合の加害者とは、Aに対して法的にアウトな、言葉の攻撃をしていた人「だけ」だろうか?その法的にアウトな言葉の攻撃をした人は、大多数のムードに後押しされてつい過激になってしまっただけの人なのではないだろうか?
たとえばもし、Aが大多数からからの言葉の攻撃を苦に自殺してしまった場合、Aを自殺に追いやったのは、法的にアウトな言葉の攻撃をしてしまった人だけで、いいのだろうか?
Aが苦にしたものは、Bに賛同した人の存在まで含まれるのではないか?

良識的な物言いであろうとAを自殺に追いやる可能性はあると思う。
実際、私が覚えている範囲のほとんどの炎上で、炎上元のAを名指しして優しい物言いで諭している発言をいくつも見た。数えているわけではないが、人権意識の高い方がよくそういう発言をされているようにも思えた。
私はこれも立派な加害だと思うのだ。
想像してみて欲しい。大多数から(何万人もフォロワーがいるような著名人からも)良識的に穏やかに自分の考えを改めるよう求められる。そしてそれは全世界に晒される。自分の考えが、大多数から否定され、諭されているところを、親も、家族も、子供も、友達も、同僚も、知っている。
考えただけで死にたくならないか?
私の目には、人権意識の高そうな方が、標的になっている個人を大勢で自殺に追いやろうとしているようにしか見えない。
でも、実際Aが自殺してしまった場合。法廷に加害者として引っ張り出されるのは、法的なラインを超えた人だけ。その人だって「なぜ自分だけが?」と思っているに違いない。私がもし遺族なら「そうだお前だけじゃない」と言いたくなると思う。
法廷にいる加害者にとっても被害者にとってもアンフェアすぎる。
ネットでの発言ってめちゃくちゃアンフェアだ。
「Aに対する過剰攻撃になってますよ」「その優しい物言いですら攻撃だと思いますよ」とさえ言えない。大勢に注目されてしまっているAの炎上に対し、何か、ちょっと毛色の違う意見を言うことは自分に火の手が回ることにもなる。Aフルボッコ状態を見ていることしかできない。
また、たとえば「みんなはAのやったこと、アンモラルだと言うけど、本当にそうかな?別の側面もあるのでは?」と言う意見だって本当はあっていいはずだ。物事には全て別の側面がある。唯一絶対正しいことなどないのだから。という、当然のことさえ主張できない。第二のAになってしまうのが分かっているから。
こうやってネットの中で目にするものはみるみる一つの意見に整えられていく。多様性の時代。

そうなのだ。難しいのは「声をあげること」を否定はできないこと。そして「声をあげている人」は多様性のために、弱者のために、あるいは弱者本人として声をあげているのだ。今ここで「声をあげる人」とは、Bや、Bに賛同する人のことを想定して言った(Aをアンモラルとしているので)。
彼らのおかげで勝ち取られてきたものも確かにあるんだと思う。束になることで声はあげやすくなる。今までなかったものにされていたものの存在を主張することが可能になる。声は、あげるべきだ。

「人に求めず、自分の行動だけを変えよう」と言う意見も見たことがある。
それで社会のなかったものにされていたことまで改善するなら理想的だと思う。けど、実際は、やっぱり、大きな声にならないと変わらない。大きな声で社会に変わるように求めなければ。大きな一つの意見として要求していくことはやっぱり大事なんだ。

すると今度は「沈黙は容認」と言う考えも出てくる。(なんかで見た)
「沈黙は容認」か。ここまで言われると私は、「いや、それは違う」と言いたくなる。
「『沈黙は容認』は暴力だ」と言いたい。沈黙する自由も、戦わない自由もあるし、「沈黙は容認」としてしまう人には見えない戦い方をしている人だっている。

声をあげることは大事。でも「沈黙は容認」には反対。
人に求めず自分の行動を変える、だけでは社会はなかなか変わらない。
でも人に同じ戦い方を求めるのは「暴力」だ。

大多数の同意が取れていることを後ろ盾にすることで一人一人の声も大きくなり、社会に訴えやすくなる。その一方で、だからここまでやっていい、言っていい、とラインを超えてしまう人もいる。そういう人からの被害に遭うのは大体たった1人の個人だ。Aだったり、ハンスだったり。


と、言うことをあの記事に込めたとして。
お気づきだろうか?あの記事。私がBだ。
そして今もまさに。立派にBやってる。正真正銘のB。
さあ、どう思う?
アリなんだろうか?ナシなんだろうか?
いや、誰の意見も聞いてない。
私自身は、アリだと思ってるんだろうか?

やっぱり「人に求めず自分が変わる」が正解なんだろうか。このAになったりBになったりする輪廻転生から逃れる方法は。私は今、ネットでコンセンサスの取れない違法ではないがアンモラルな意見を、弱者とみなし、声をあげて戦っているだけだろうか?Bのように。Aのアンモラルな考えに賛同する人をないものにしないでくれ、と勇気を出して社会に問題提起しているだけなのだろうか?Bのように。

上記で、私は、Bに賛同する人もAを自殺に追いやる可能性はある。といった。ではB本人はなぜ含まなかったのか、というと、何かに反対し、意見を述べる自由は保障されなければいけないと思ったからだ。Aのアンモラルな行いに疑問を持って問題提起した最初のただ1人Bまでは、フェアであると思ったのだ。ただ、その後からは、アンフェアになる可能性を帯びてくると思った。だから、Bに賛同する人もAを加害していることになりうる、と言った。

セーフだ。私はB。フェアにやってる。
そうだろうか?
なんだかそう思えないからずっと考えている。
あの記事は、この記事は?
やっぱナシなんじゃないかと思う。


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