廿年前

とりあえず「エゴサ」が何の略かわからない方向きではない文章です、ご勘弁ください。

エゴサの良し悪しについても、恐らく読んでくださっている方々より、散々見聞きし、考えておりますので、ご指摘いただくに及びません。

さて。

先日Twitterで

「會川昇唯一の汚点かも」

なんて呟いておられる方がおられて、いやいや恥や穢れの多い人生ですよ、とツイートをたどってみたら、どうも最近流行りのアニメ(よく知らない)からナデシコの三話を引用して

「脚本家が鬱展開ゴリ押ししたくて企画会議で監督がいない時に無理矢理押し込んだのでめっちゃ評判悪い」

と解説されている。ん? さらに

「相当監督が気に食わない展開だったのかその後のスパロボ等では延々と生き続けるもよう」

と来た。

「機動戦艦ナデシコ」の第三話で、主要登場人物(に見せかけた)が突如死亡する脚本は確かに私によるものですが、これは私が参加する前のシリーズ構成からあったもので、それは前任の脚本家と監督の合意点だったので、私としては(あまり納得はしてないが)敢えてその構成はそのままに、彼の死をシリーズの中で意味あるようにした……というのは、当時からインタビューに答えているし、今でも読めるテキストにいくらでも書かれているので、まさかこんな誤解がまかり通っている世界があるとは思いませんでした。
誰かが関係者のふりをしてこんなデマを撒き散らしている……という可能性もゼロではないでしょうが、もしそうなら余計に否定しておかなければいけないし、さてどうしたものかな、と思いました。

ちなみ私がネット、特にTwitter上のデマや誤解に反応する場合「その発言主のフォロワが百人を越えている」が一つの基準となります。まぁ絶対ではないし、それがどうしたって場合もあるんですが、フォロワー百人以下の人のツイートが、ネット上で力のある証言として活用された例をあまり知らないので。

それでこのツイートをされている方を見てみるとフォロワ数はそれなりだったのですが、プロフィールに大学生と書かれていたんですね。
ちなみにナデシコはいまから二〇年まえの作品なので、その方からすれば生まれる前か、生まれてすぐに放送されたということになります。

さて、私がいまの仕事に就く前、やはり特撮ファンだったり昔のアニメを見たりしていました。
私が二十歳を越えた頃の、二〇年前の作品……というと「ウルトラQ」とか「ウルトラマン」ということになります。
それで思い出すのは、当時自分がそんな二〇年前の作品について、どれほど正確な知識を持てただろうかということです。
もちろん、今は旧作を容易に視聴が可能で、研究書も溢れています。一方私の時代は二〇年前の作品などはようやくビデオレンタルされるようになったばかりで、そもそもビデオテープというのはDVDに較べてアクセスが悪いメディアでした。しかし、それでも二〇年という時間の感覚はやはり同じではないかと思うのです。
あの頃の自分にとって、「Q」や「マン」はもはや歴史的存在であり、その作り手についてややスキャンダラスなことを語ったとしても、そんなことは検証不可能なこととして誰もが流してしまったでしょう。

そうですね、例えば実相寺昭雄監督作品が、円谷一や野長瀬三摩地作品に較べて語られがちなのは、その当時の私たちは実相寺さんが書かれたやや露悪的な自作解説にしか触れられなかったから、という理由があったりするのです。

もちろん、もっと正確に、データに基づいた研究/批評をしよう、ということで現在があります。
しかし……なんていうのかな、二〇年はやっぱり二〇年で。
現代の大学生にとっての自分が、当時の自分にとっての「Q」「マン」の作り手のような世代になっている。

そのことを実感させてくれる、なんだかとても楽しい経験でした。

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