余談礼賛

 いきなり余談だが、今回の原稿は基本的になにも調べず、頭に浮かぶ想い出をただ順序だてて紹介しようと思っていた。その記憶では池田憲章先生(なぜセンセイなのかは少し後でわかる)に出会ったのは昭和53年、私が中学一年生のことだった。ところが念のため調べてみると、どうも整合性がとれない。おそらくこれは昭和54年、中学二年生のときのことだったらしい。万事この調子で申し訳ないが、ご勘弁いただきたい。
 改めて昭和54(1979)年6月、恒例の教育実習の時期に、池田さんは現代国語の実習生として私たちの教壇に立たれた。当時の現国は中村秀真という教諭が受け持たれており(余談だが、あだ名はもちろん電光ホツマである)池田さんは中高のOBでもあり在校中は秀真先生に受けもたれていたということだった。その実習の期間、友人が先に気付いた。
 
『なあ、池田ケンショーって、ヒーロー列伝じゃね?』

 私が通っていた中学は私立の進学校で東京や南関東一円から、当時は一学年三百人余りが集まっていた。それだけ集まれば勉強以外のことに熱心な層もおり、私の場合は漫画、アニメや特撮、SFなどについて共通の話題を持つ友人とつるむことが多かった。いまから40年以上前である。アニメージュは前年に創刊したばかり。いかにアニメ・SFブームと言われていても、当時の中学生にはアニメの話はさておき「ウルトラマン」「仮面ライダー」といった特撮ものは完全に幼児向けと認識されており、公にそれらについて語るのは相当な変わり者と思われることを覚悟しなければならなかった。
 だが私たちには共通のバイブルがあった。中学に入学する直前、昭和52年の年末に発売されていた「ファンタスティックコレクション 空想特撮映像のすばらしき世界 ウルトラマン/ウルトラセブン/ウルトラQ」である。明らかにそれまでの子ども向けに書かれていた本と違い、この一冊は作品の背後に作り手がおり、メッセージがあることを伝えようとしていた。タイミングよく各局がウルトラシリーズなどの再放送をさまざまな時間で始めており、親の冷たい視線を気にしながらそれを録音(ビデオデッキが我が家に来るのは、翌年)し、自分なりに分析して悦にいっていた。と同時に旧ルパン三世やエースをねらえ!の再放送、圧倒的に子ども向けだと思っていた「ザンボット3」や「ボルテスV」の最終回を、これも漫画などに興味があった三歳上の兄と共に見て衝撃を受け「ダイターン」「ダイモス」は一話から欠かさず観るようになり……全ては余談だが、とにかく中学受験から解放されたあのタイミングで自分は一度卒業したつもりだった特撮とアニメのそれも上質なものを一気に浴びせられて、その情報の海に溺れようとしていた。
 そんな中で頼りにしたのがファンコレや創刊間もないアニメ誌であり、そして昭和53年末に創刊した「マニフィック」もそうしたものの一つだった。この年の5月には既に「アニメック」に誌名を変えていたが、我々がやや見つけにくく印刷もよろしくないこの雑誌を競って買っていたのはそこに「日本特撮映画史・SFヒーロー列伝」という連載があったからだった。「ウルトラマン」「キカイダー」「ナショナルキッド」「ジャイアントロボ」「マグマ大使」……決して奇を衒ったラインナップではない。だが当時ウルトラシリーズなどに比べて圧倒的に再放送に恵まれなかったそうした作品群が活字で詳しく紹介されているというだけでもありがたいのに、各作品の特徴や魅力に加えて必ず「ドラマ」に言及し、その物語には大人が観る価値があるのだ、もっと評価されてもよいのではないかという熱いアジテーションがあった。リアル中二にはそれがまさにはまった。
 特撮仲間だった友人の誰が「池田憲章」というのが、その「SFヒーロー列伝」の書き手として表記されていることに気づいたのか、記憶にない(連載1回目のみは岸川靖さんの担当)。テレビ神奈川の「ジャイアントロボ」の再放送が受信できるので家まで通わせてもらっていた成沢大輔だったろうか。余談だが彼は後にメガテンやダビスタの攻略本で一家をなすことになったが、その彼もいまはもう亡い。
 とにかく数少ない仲間の誰かが、あの教育実習生が「ヒーロー列伝の池田ケンショー」ではないかと気付き、どういう次第でか私が確かめることになった。廊下で突然「あの、マニフィックで……」と声をかけられた池田さんは驚いたあと、あの満面の笑顔で「いやー、ここで読んでる人がいるとは思わなかったなあ」と照れてみせた。
 そのあと特に親しく言葉を交わすことはなかったが、母校には中学・高校としてはかなり大きな図書館があり、昼休みによくそこで池田さんの姿を見かけた。そこには福島正美の「SF入門」があったが、あとで気づいたがそれは池田さんからの寄贈本だった。また池田さんたちの代に購入させたというハヤカワの世界SF全集も揃っていて、その中の「結晶世界」を読んでいる池田さんに話しかけたことを、なぜかはっきりと覚えている。多分「そんなのとっくの昔に読んだんじゃないですか」と生意気な口を叩いたはずだが、池田さんは「ニューウェーブは今になって読むとまた別の」云々としごく真面目な答えを返してくれた。
 教育実習のとき課題になったのは、山本周五郎「鼓くらべ」だ。昭和53年から8年間教科書に採用されていたので、私の世代なら一度は読まされている。その授業そのものは特に印象に残るものではなかったが、最後の授業だけは特別なものだった。
 そこで池田さんは「SF」について語りだした。当時まだ子ども向けの「空想科学小説」と区別がつかないものもいたそのセンスオブワンダーの素晴らしさについて解き始めた。SF作家クラブが東海村を見学した際、星新一が「まず原子というものを見せてください」と言った逸話(その話を知っていた私が先にオチを口走ってしまうのだが)から、想像力の自由といったものを語られたと思う。
 そしておもむろに朗読を始めた。それは筒井康隆の「バブリング創世記」だった。ジャズ・スキャットの技法で旧約聖書をパロディにしたそれは、音の面白さとくだらなさで、誰もが笑ってしまうしかない傑作だ。当時の私たちが笑いながらその作品の本質に気づいていたとは思えない。だが最後に池田さんが云った言葉はよく覚えている。

『SFにはこういうのもあるんだよ』

 数年後、高山良策さんの葬儀の席で改めて池田さんに「あの時の生徒」であることをお知らせして、その後は同じ業界でときおりお会いする関係となる。アニメック編集部では机を並べて原稿を書くこともあり(とは言え池田さんは持ち込んだ大量の資料の中で眠っておられることが多かったが)、また小学館編集部に連れていかれて特撮ものの絵本のライターをしないかと誘っていただいたこともある。
 アニメックで丹波哲郎の「ジキルとハイド」について書いた時「あれでは作品の良さがまるで伝わらない」と激しく怒られたこともある。
 距離が空いたのは、池田さんが角川書店でプロデューサーになられた頃だ。その頃自分はカセット文庫(オーディオドラマ)でもOVAでも多作を誇り、旧来のライターよりもファンの気持ちに近いものを書いていると自負していた。池田さんもそれらを担当されていたのですぐに仕事がくるものと思っていたが、結局カドカワ時代一度も仕事をいただけることは無かった。それが自分への評価だと認めることができず、悔しくて池田さんのみならず特撮ファンとしてライター仕事をしていた頃にお世話になった「怪獣倶楽部」系の先輩たちと意識的に離れるようになっていった。
 だから「ナデシコ」でようやくテレビのメインライターになり、「ハガレン」でそれなりのものを残すまでの期間、池田さんはじめ先輩たちの自分への評価を耳にすることは無かった。今となっては勿体なかった気もするが、そのときの自分はそうすることで、必死に一人前になろうとしていたのかも知れない。
 
 そんな池田さんとまた話すようになったのは、NHKの大橋守ディレクターを紹介されたことがきっかけだった。大橋氏は少年ドラマや特撮ものに愛着を持つNHKには珍しいマニア気質で、池田さんとよく企画の相談などしておられた。やがて大橋氏との縁で私は「戦艦大和のカレイライス」というファンタジードラマを書くことになる。その試写に聖咲奇さんと現れた池田さんは「こういうドラマをもっと書いてくれよ」と喜んでくれた。思えば作品を褒めてもらった記憶はその一度だけだ。
 その後資料性博覧会の会場でお会いする度に、体調などが気になったが、積極的にサポートを申し出ることはなかった。池田さんを知る人なら誰でも経験しているだろうが、電話でも会ってでも話し出すととにかく止まらないその性格。突然大量の資料のコピーを送ってきたり、あるいは資料の貸借を巡ってのトラブル。長くお付き合いするとそうした様々なことが億劫にも感じられて、ついつい留守番電話への返事も滞りがちになる。
 そして――。
 
 池田さんの話が長くなるのは、話すうちにその話題がどんどん広がり、飛躍していくからだ。そのどれもが作品への愛情と広い知識に裏打ちされたものであり、面白い。考えてみれば自分の作品もまた「なんでそんなとこまで書かなきゃいけないの」という余談や脇筋が詰め込まれたものばかりだ。理由などない。語らずにはおれない、誰かに伝えておきたい。だって――人生は有限なのだから。
 だから私も、作品の中で叫び続ける。
 
「こんなのもあるんだよ!」
「こんな余談(の)もあるんだよ!」

https://www.mandarake.co.jp/information/event/siryosei_expo/tokushu.html

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?