皇紀2684年8月18日、25日(第14回目)

皆さん、こんばんわ。現代の大和撫子を目指します。田中じゅんこです。
少し後手後手な投稿となってしまって申し訳ありません。
今年の夏はとても暑さが厳しかったように思います。
数百年に1度太陽が活発化しているとか、磁場が逆転してるとか、色々説は
言われていますが、まぁ、暑いことに変わりはないということで。
第14回目の放送は、久しぶりに1人語りの回でした。
最近はたくさんの方が私のラジオに遊びに来てくださり、本当にありがたい限りでございました。ゆめのたねでラジオパーソナリティをさせていただいて、大阪、岡山とちゃくちゃくと県外のスタジオにもお邪魔させていただいて、いつも新たな氣持ちにさせていただいています。
今回は久しぶりの広島スタジオでの収録でした。

では、早速ですが今回の放送ですが、久しぶりのコーナーです。
今日は何の日のコーナー。
慶雲4年7月17日(旧暦で7/17、日付で言うと8/18です)
天智天皇の第4皇女支阿閇(あへ)。阿部皇女 (あんのひめみこ)が、元明(げんめい)天皇として日本の第43代天皇となった日です。元明天皇は、天武天皇と持統天皇の子の草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母です。
679年頃、1歳年下である甥の草壁皇子と結婚。681年3月19日に草壁皇子が皇太子となる。
686年に天武天皇が崩御し、草壁皇子がほどなく皇位を継承する見込みであったが、3年後の689年5月7日、草壁皇子は即位することなく早世。
草壁皇子と阿閇妃の子である珂瑠(かる)皇子が成長するまで、天武天皇の皇后であった持統天皇が皇位を一時期預かったのち、697年9月7日に珂瑠皇子が文武天皇として即位し、阿閇妃は同日、皇太妃となった。
707年7月18日、文武天皇が25歳で崩御。残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、初めて皇后を経ないで即位した。

この説明で家系図見るとすごくわかりやすいんだと思うんですけどね、簡単に説明すると、草壁皇子の父、天武天皇が第40代、本来は天武天皇(父)が崩御されたのち、息子の草壁皇子が継承するはずが、わずか3年後に若くして亡くなられた。草壁皇子と阿閇(のちの元明天皇)の子供である珂瑠皇子皇子が成長するまで、天武天皇の奥方が持統天皇として41第目に即位。のちに珂瑠皇子が42代目文武天皇として即位するが、25歳で崩御。孫の首(おびと)皇子が成長するまで43代目天皇として元明天皇が即位した。

という流れになります。基本男系天皇として継承していくけれど、年齢の問題で、一時的に天皇家として即位する奥方や、母君が天皇の座についていたという歴史が、あったようです。これも天皇家を継続させていくための手段のひとつだったのかなと、私自身が感じたことでした。

次に、8月25日、過去日本で何があったかといいますと、
1550年(天文19年7月13日)毛利元就が家中において、専横(せんおう)を極めていた井上元兼その一族を殺害した日です。専横っていうのは、わかりやすく言えば、好き勝手してたってことですね。その直後、家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文 (きしょうもん)に署名させ、集団の統率力を強化した。ただ、一族を殺害といったんですが、実際に毛利元就が恩を受けた、井上光俊や井上一族の長老であった、兼光は命をとることはしなかったとのことでした。
元就自身はこの誅殺において、三男の隆景に「幼いころからの井上氏の専横についての恨みつらみをしたためていたが、家臣を切ることは自身の手足を切るようなものだから決してあってはならないとつづっていたそうです。
毛利家については、私が住んでいる広島安芸国の統治をしていた武将なので、後々詳しく調べたうえで、ラジオでお話しできたらなと思います。

さて、今回の本編は私が先日山口縣護国神社へ足を運ばせていただいた時の事をお話させていただきました。
広島護国神社へはよくいかせていただいているのですが、産まれの地である
山口縣護国神社へは一度も足を運ばせていただいていないんですよね。
なので今回、ご縁があって足を運ばせていただきました。
ラジオではタドタドしくではありますが、簡単にお話させていただいているのでよかったらぜひ聴いてくださいませ。

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※こちらの音源はゆめのたね放送局の 許可を得て掲載しております


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