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第3回能登半島物資支援&取材の収支報告

皆さんお疲れ様です3月が入りもう間も無く桜が咲く季節になってきました。
おかげさまで無事に先月の22〜26日まで能登半島への物資支援が終わりましたので収支報告させていただきます。
今回購入したものは

・水
・お菓子各種(その中でもたべっ子動物はアレルギーの方にも配慮され手が汚れにくい基本どなたでも食べれるので購入)
・靴下
・タイツ
・レッグ&アームウォーマー
・暖かインナー
・マスク
・コーヒー
・ヘアゴム
・ハンドクリーム&リップクリーム
・タバコ
・バスタオル
・男女ともに下着


初日に購入した物資

高速2800円
宿代43600円
レンタカー40700円
ガソリン代15200円
駐車場7600円(那覇空港)
駐車場代1000円
飛行機代66376円
配信用のギガバイト追加代5000円

物資代(それぞれ2ヶ所分)
22日51550円
23日47019円
24日68625円(25日避難所にて要望があった物資代も含む)

合計349,470円
預かり金29万4000円
前回の残りの預かり金61594円
今回の残りの預かり金6124円
(残りの預かり金はもうすでに決まっている次の能登支援に充当させていただきます)

以下ご報告です。
22日は沖縄から小松空港に到着し、レンタカーを借りて物資を購入した後に金沢の宿へ。


23日は志賀町の前回物資をお届けしました富来防災センターへ物資のお届けと、今回は新たにビニールハウスで避難されている方々の所へ物資をお届けしました。
1/1は家でコタツに入りながらテレビを見ていたときに16時頃に1回目の地震がきて、2回目の地震が激しく強い揺れで何か物にしがみついていないと立っていられない状況だったという。
幸いその方達の家は被害もなく、農家をやっているから湧き水も出てお風呂にも入れるし、自分たちが育てた米や野菜が潤沢にあり足りており、更なる地震に備えてビニールハウスに避難されているとの事で、筆者が「では、今欲しい物といえば何ですか?」と尋ねると、避難者の女性の方が「スティックのコーヒーがもう無くなってきてるから欲しいのよ」というので。
一度ビニールハウスを離れた後に昼食休憩をした近くのコンビニであるだけのスティックコーヒーを購入。
前回1月に支援物資を避難所にお届けした際に、愛知県から派遣された職員の方に教えていただいたのだが、「私たち行政は、水や食料など緊急で必要な生活必需品などは提供できるが、コーヒーやお菓子などは贅沢品となり支援できないので助かる」と教えていただいたので、僕たち「野良ボランティア」にできることといえば水など生活必需品も持っていくが、行政がなかなか支援できない物を中心にお届けした。
そして購入後再度ビニールハウスへ持っていくと先程の方が「そんなつもりじゃないのに、催促したみたいでごめんね」と、逆にいうと持っていく側としては催促していただいた方がすごく助かります。
因みになぜ近くに指定避難所があるにも関わらずビニールハウスで避難されているのかと聞くと
「避難所はとても気を使うし、それなら気がしれた近所の方とここに居たい、しかし3週間後には行政の方にビニールハウスでの避難は終わってくれと言われたから、この場所は残しておくが家に戻る」と答えた。

右に見えるビニールハウスが避難所に使われているビニールハウス
ブドウを育てているビニールハウスの中に高齢の方とそのお孫さんで避難されている
左の方の寝袋は野口健氏が寄贈した物(撮影許可は得ています)


お届けしたスティックコーヒー

その後再び金沢へ戻り次の日の買い出しへ
何度も支援物資を購入していると段々と手際が良くなり、最初の頃よりも素早く物資の購入が出来てくる。


24日この日は、沖縄で農家をしている方から、以前インタビューを撮らせていただいた坂本菜の花さん一家が経営する湯宿「さか本」へhttps://www.youtube.com/watch?v=P-cIpXzgsGo&t=131s

沖縄で育てた島ラッキョとカボチャを届けてとお願いされたので、先にホテルに送っていただいてもらっていたので、野菜が入ったダンボール(鉄アレイが詰まれてるかと思うぐらい重たかったw)を車に詰め込み珠洲市へ。
今回3回目の能登入りでは初めての、のと里山海道
勿論渋滞もなく、以前は七尾市の手前ぐらいで降りて七尾市から穴水を通ってからの各地であったが、以前よりも更に開通され、穴水町手前の越の原ICまで行けるようになっていた。


片側一車線が潰れたのと里山海道ここが志賀原発の避難計画にも入っている

そして越の原ICを降りる手前からどうも違和感が、あまりにも警察車両の数信号機の前でスタンバる警察官と異様な光景。
知ってはいましたが、到着時間などは全く知るよしもなかったが間違いなくそうだと確信した、岸田総理大臣の避難所訪問日だと。
元々の予定でもあったが、穴水駅で休憩の予定だったので急いで向かうと異常なぐらいの警察官の数、間も無く到着とのことだ。
数十分待っていると車列を並べ大名行列の中から岸田総理がやってきたのだ

発災当初から着用している水色の作業着で馳浩 石川県知事と共に避難所内へ、到着した時に警察官からメディアも避難所の中は撮影禁止と言われ視察の間は避難者の方もトイレの使用も禁止だったという。

ひとしきり視察を終えた総理は避難所から出てきて、入り口にいた避難者から「ボランティアの方がこのように頑張ってくださる」と声をかけると「ご不便をおかけしますが一緒に頑張っていきましょう」と声をかけ
また別の場所でも、「一日でも早く生活が取り戻せるように支援を拡充していきますので頑張っていきましょう」と声をかけ去っていったのだが
発災後、臨時国会もすぐに開かず予備費だけで対応し、阪神淡路大震災、東日本大地震、熊本大地震でも行われた補正予算を付けずに、ただただ「頑張りましょう、頑張りましょう」としか言わず被災者にこれ以上何を頑張れというのだろう。

最後に避難所に向かって「頑張りましょう」と声をかける岸田総理

そして、我々も本来の目的である珠洲市へと車を走らせた、珠洲市は3/2現在も断水や一部停電が続いており、湯宿さか本も筆者が訪ねてしばらくまで停電していた、筆者がさか本に到着し偶然なのですが1時間後に停電から復活。
その後、沖縄からの物資もお届けできたので、別の避難所へ。
こちらは前回もお届けさせていただいたのですが、今回も寄らせていただいて、今回は沖縄からの「紅芋タルト」を物資で持っていくと避難所の管理者の方は「俺、この前一時避難で沖縄行ってきたんだよ」と沖縄県玉城デニー知事が1/2から動いて、被災者の方に沖縄に来て少しでもゆっくりしてと一時避難の受け入れを行なっている、是非そちらのインタビューを撮らせて欲しいとお願いしたら、すぐに受け入れて下さった。
詳しくはYouTubeに上げてるのでそちらをご覧ください

そして発災当初のお話もしていただき、あの地震は「この世の終わりだと思った」
「最初に来たのは個人のボランティアでその後に行政や自衛隊の物資が届いた」とのこと
インタビューが終わった後も立ち話的な感覚で沖縄での話をして「宜野座で行われている阪神タイガースのキャンプも見に行ってきたよ」と笑顔で喋っていただいた。
ただ一時避難は一度しか使えないみたいなので、また旅行で行きたいと仰っていただいた。

その後更に北へと車を走らせ珠洲岬の様子を見に行った、こちらは今回の能登半島地震の震源地にもなった場所で津波被害もあった場所だ。
このエリアに関しては24日の時にはまだ倒壊した家屋などに貼られる全壊証明の貼り紙は貼られていない、要はまだ手が回っていない
この辺りはあまりメディア等でもピックアップされないので写真で見ていただきたい

珠洲岬
これが全壊証明と呼ばれる赤札


因みにこの珠洲岬は1989年頃には、珠洲原発を建てる計画があり、住民の反対運動によりその計画が凍結となった。
もし住民の反対が押し切られて原発が作られていれば今回の地震そして津波による被害でどうなっていたかは福島第一原子力発電所のあの惨状が記憶に新しい我々は容易に想像がつくであろう。

その後また金沢へと車を走らせ次の日の物資の買い出しを済ませ、25日取材を共にする選挙ウォッチャーちだい氏と合流し明日の打ち合わせ。
これは別に頑張ってるアピールでもなくこの日は朝起きてからちだいさんに会うまで、一食もせずに気づいたら夜でした


25日は朝からちだいさんを迎えにいき輪島市へと車を走らせた。

3連休の最終日なのに能登半島方面は全く渋滞がなくスムーズに穴水までとりあえずたどり着けたのだが、発災から二ヶ月近くで渋滞が無いのは、寧ろ悲惨なことでそれだけボランティアの数が足りていないということだ。
おおよそ25日時点での行政が募集してのボラ入りは約2700名とされている、これは一日の数ではなく受け入れを開始してから25日までの数だ。
なので現場は圧倒的に人数が足りていない、あれだけ道の損傷が激しく穴水〜輪島市まで1/26の段階では1時間30分かかっていたものが今じゃ40分で着くように道も改善されていってる。
そんなこんなでまず、我々3名は元々孤立地域でもあり発災当初から届けに行きたかった場所でもある輪島市の大屋地区の大屋小学校まで物資をお届けに行った、物資をお届けし今何が足りていないのか尋ねると「バスタオルと男女用下着が足りていない」とのことだ。
発災から約2ヶ月経とうとしているのにまだ行政が届ける生活必需品の範疇でもある物資が足りてないのは流石にやばすぎるので、すぐに近くのしまむらで「バスタオルと男女下着」を購入しお届けした。
大屋地区の近くには輪島市の観光スポットでもある漆工芸美術館もある、たまたま担当していただいた方も漆職人の方で美術館の被害は食い止められたが、売りに出す商品は壊滅状態で、今売りに出せるものは全国に出品し、あとは工場も潰れたからゼロからのスタートだと現状を聞かせていただいた。

その他にも、この大屋小学校は周りで自主避難をされている方が物資を取りに来たりもしており、その中でとある一家全員がまだまだ真冬の雨が降る輪島でサンダル姿なのである。
本当に現地では未だに生活必需品の物資すら足りていないのが現状だ。
また逆に嗜好品と呼ばれるタバコもすごく喜ばれ、喫煙所にいた方にカートンから出したタバコをお渡しすると「こんな高級な物資がもらえるんだ、物資でたばこなんて貰ったのは初めてだよ」と2箱ずつお渡しすると、1人の方が、あの人にも渡してとすぐにタバコが無くなっていった。

しまむらで急遽購入したバスタオルと下着

そして次は前回は雪が残る景色だったので雪が積もっていない朝市を記録したかったので以前に震災前の朝市を取材したことのあるちだいさんと今の朝市を見に行った。
以前行った時は黄色い規制線があり中に入れなかったが今回はそれも無くなっており、中まで確認できた。
焼け焦げたお土産屋の跡、各所に集積された漆器、そして小さな子供が遊ぶアンパンマンのブロックだったり
その他にも倒れかかった電柱や改装のために建てられたであろう建築用の足場だけが残っていたり
復興とは程遠い現状が目の前に広がっていった、復旧もしていなければ復興も程遠いこの現状で「ブルーインパルスを飛ばして被災地を元気に」なんて口が裂けても言えないし、石川1区選出の衆議院議員の小森議員が国会答弁で「下や前だけじゃなく上を見て元気を出して欲しい」なんてブルーインパルスを飛ばすにしてもあまりにも時期早々で現実と乖離しすぎた話だし。
24日の岸田総理の「頑張りましょう」という言葉も含めて精神論で乗り切ろうとしている感じが否めない。


朝市の取材が終わったあと、門前中学校に物資をお届けしてから、「液状化」が悲惨な内灘町を取材、こちらは家が12センチほどズレたり道が斜めになっていたり、修繕するには全部周りも取っ払わないといけないぐらいで、西荒屋地区に住んでいる方は集団移住しなきゃいけないということも言われている


そして支援物資も全て無事にお届けでき、取材も全て終えて、ちだいさんを駅までお見送りし金沢の宿へと帰宅した。

そんな感じで実働3日間の能登半島物資支援が無事に終える事ができました
まだまだ悲惨な状況には変わりはなく、先ほどもお伝えしましたが復旧もままならない状況で復興なんて言葉は程遠いのが現状なのにも関わらず
3/1から、輪島市では復興のために市の人員を投入するので、県外からの行政職員も減らし、物資も今までは市の職員や行政派遣の職員が自主避難所までデリバリーしていたがそれも打ち切りし物資は指定避難所まで各自が取りに行かなきゃならない事になった。
そして仮設住宅も、今各所で建設されていっているが、明らかに数が足らず
馳浩石川県知事は「夏ごろまでに人数分の仮設住宅を確保したい」という願望だけを記者会見で言ってしまうほどの遅れが目立っている。
10代の頃すごくお世話になり、阪神淡路大震災を経験した神戸のレゲエバーJAMDUNGを経営するレゲエアーティストのZEBRAMANは筆者のインスタグラムのコメントに「物資の供給や提供での安心感の時間帯は3ヶ月が限度」と自らの経験も踏まえた上で教えてくださったので。
再度3月29日〜4月1日まで能登半島へ物資をお届けに行きそして取材もしてきます
是非とも皆さん引き続きご支援のほどよろしくお願いいたします。


【能登半島へ物資支援を行うカンパのお願い】
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ゆうちょ銀行口座を持ってる方は記号 17010 番号 17979041 ニオアツシ


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