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はやく人間になりたい??『哀れなるものたち』感想

おさらい

『#me too運動』とは、2006年に若年黒人女性を支援する非営利団体『Just Be Inc.』を設立したアメリカの市民活動家タラナ・バークが、家庭内で性虐待を受ける少女から相談されたことがきっかけで、2007年に性暴力被害者支援の草の根活動のスローガンとして「Me Too」を提唱し地道な活動を行う。2017年にハーヴェイ・ワインスタインのセクハラ問題が拡散すると、女優のアリッサ・ミラノが既に同じスローガンが存在することに気づかないまま、性暴力を受けた女性は「#MeToo」と投稿して声を上げようと呼び掛け、この運動は社会現象として世界中に広がった。

……というものである(wikiにきれいにまとまっていた、リンクは私がつけました)。
2017年当時、日本のワイドショーで「#me too運動」が紹介されているのを見ながら「こうやって集団で訴えてくるのが陰湿でヤな感じだ」と母はぼやいた。(ちなみに90年代「従軍慰安婦」という言葉があがりはじめたころも「戦争で傷ついたのはみんな同じなのに、後から出てきて金を取ったろという魂胆がみえみえ」とも、言っていた。横にいた私はまだガキンチョだったので、「慰安婦」の件はよくわからないなりに「こんな辛そうなおばあさんに向かってンな冷たいこと言わなくても…」と思ったのを覚えている)。ちょっと連想する部分もあったのであろう。私はフェミニズムを”インストール済み”で間もなかったころで、これこれこういうものであって、と説明を試みたが、それでも「でもさあ、なんか下品じゃん」と口を尖らせてしまった。まあ私の説明が下手だったかもしれない。
そのあたりから「女性の強さっていうか、なんかそういうやつ」の作品が溢れるほど作られ『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015年……ひー)などから爆発的ヒットを飛ばし、フェミ的なテーマ、要素の入ったの作品はどんどん賑やかになっていったし、もう無視して何かつくることは白い目で見られて当然、くらいの世の中である。ちなみにバービー来航直撃世代な母は『バービー』(2023)を観て「ずいぶん基本的な話をしてたね。でもギャグ映画ってことでいいんだよね?」と楽しげだったので、この数年でアップデートだかインストールだか、したのかもしれない。もしくは“空気”により自然と態度が軟化したのか。いずれにせよ、良いことである。去年のジャニー喜多川や松本人志への告発から、ああようやく日本にも#me too運動の波が、と感慨深い人は2兆人くらいいるんじゃないですか。「なんかヤな感じだけど、今はそういう時代の”空気”があるから黙っとこう」って人も2兆人くらいいるでしょうけど。

哀れなる2024

ということを鑑みて、ヨルゴス・ランティモス監督『哀れなるものたち』も「女性の解放」という観点からは特に目新しいものは何もないと感じる。すばらしく奇妙で豪奢な美術や衣装に彩られてはいるが、三人(まあ四人?か)の男からの支配欲をかわすのも、対象問わず性的な快楽を貪るのも、自主的に性産業へ参入するのも、その中で労働の権利を自覚していくのも、知識や知性がさらなる冒険の扉を開けるのも、「女性の解放」ドラマとしては王道中の王道。そんな映画は先述のとおり以前からなんぼでもある。ので、今作を私はそういう視点からはあまり観ていなかった。それよりも主人公ベラに搭載された胎児の脳味噌が男か女か明らかでない、という前提である物語、を楽しんだ。ベラの脳味噌は自らの意思で己の”魂”を逃がした母体で生成された”魂”、でしかない。その魂は、幼児、とも、子供、とも呼ばれ、ジェンダー未分化な状態と言える。未分化なまま、大人の女性の身体でもって、ベラは動く。ベラは人間ではない。だってそうだろう。この設定を死体の娘もしくは息子、もしくは死体が生まれ変わった、としてしまうなら、"個体として独立した存在"を否定することになる(したけりゃすりゃいいが)。という意味で、ベラは怪物、ジャンルとしては"妖怪人間"なのである。闇に隠れては生きないが、はやく人間になりたいとも嘆かない。なのでいくらセックスしても妊娠する(倫理をねじ切ってベラをつくったゴッドなのだからそういう施術を施していて当然だと思う)、もしくは感染症にかかるという可能性に関しても、これはファンタジーSFなので考えなかったかな(たとえば売春宿でベラ以外の娼婦が感染症になってベラがなにかしら学ぶ、みたいなシーンとかどうでしょう。二次創作しちゃった)。

私はベラよりもゴッド(ウィレム・デフォーが宇宙で一番好きな俳優だということを差し置いても)に感情移入していたかもしれない。父親に実験体にされ改造され性的にも不能なゴッドはシンプルに自分と条件が一緒の「仲間」が欲しかったのでは、と勘繰る。彼の呼び名がなによりゴッド(GOD)で、神は自分に似せて人間を作った的な聖書の言葉も想起させる。どんなになっても「娘」を愛でたい、もしくは「若い女性」を庇護したい欲望を持つ結局「有害な男性」だ、という読み方でも勿論いけるが、孤独なのだと割り切った魂が、いくら頑健に己を殺してもやはり本当の「孤独」は耐え難いものだ、という健気さをデフォーの演技から感じ静かに落涙した。てかマジ演技巧すぎん??デフォーがこの映画のリアリティってやつをがっつり支えているよね!ほんとすてきな白デフォー(黒デフォーは『ラブレス』『ワイルド・アット・ハート』『ライトハウス』など)をありがとうございます、最初のシーンの背中でもう「うおおお!ナイスデフォー!!!」とすでに絶叫し拍手喝采したかった。まだまだ色んな白黒を演じて欲しい。本当に大好きです。

BODY or SYMBOL

しかしながらこの「孤独」にしろ、ベラの目指す(?)「自由」にしろ、を、「女性の姿かたち」で表現することの困難さについて考えさせられた。そしてそれは私自身の「生きづらさ」に重なる部分も勿論ある。しかし他人の感想を眺めてみると、ベラをナチュラルに「人間の成人女性」として捉え、または透視して、はらはらしたり感情移入したりする人が意外と多いのだな~と(あ別に人それぞれで良いと思いますけど)感じた。「頭の中身が幼児」な「男性の姿かたち」をした者の物語(たとえば『シザーハンズ』とか『レインマン』とかか。なんか古くてすまん)に比べて、「はらはら」の感覚がどうしても違いますよね。現実社会、観客が置かれている側の問題を反映しているんだろうナ、と思った。「女性の人権」がまだ人々の無意識の層にまで浸透していないので「人権獲得クエスト」から何度も描かねばならず(それによって生じる一つの「思い込み」がこの「ベラはノンバイナリーな怪物である」という設定を忘れさせてしまうのでは、と思う)、かつ、その勇者の「姿かたち」は、ほとんどが見目麗しい(ちなみにエマ・ストーンは中性的なルックに演出されている気がしたがどうだろう。あの衣装はまるでガンダムか何かみたいだし)。恐らくそうでないと観客が“同情(哀れなる)”を寄せることに後ろめたさが発生し、エンターテイメントとして成立させるのも難しくなるからだろう。ちなみにそのへんを突破した作品だと個人的に思っているのはアリ・アッバシ監督『ボーダー二つの世界』。『哀れなるものたち』が気に入った方はぜひ。


ゴッド好っきゃねん

 めっちゃどうでもいいが、ゴッドのげっぷがシャボン玉なのに、童謡『シャボン玉』を思い出した。

シャボン玉飛んだ 屋根まで飛んだ 屋根まで飛んで こわれて消えた
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた 産まれてすぐに こわれて消えた
風、風、吹くな シャボン玉飛ばそ

作詞をした野口雨情は生まれて間もなく亡くなった自身の子供のことを想ってこれを書いたと言われている。ベラ曰く「魂の存在を信じていない」ゴッドのげっぷは、なんとなくそういったものも連想させた。人間は孤独から生みだしたものがいつか自分の手を離れていくさみしさから、また新たな孤独に生まれなおす。自分より遠くへ行ってほしいと祈ると同時に、手放したくないと無様に縋りもする。怪物の姿かたちであってもゴッドは人間であり、そんな、哀れなるものなので、あーる。

大体ヨルゴス監督ってかなり悪意ある監督だと思うよ 

かくしてベラは不敵な笑みを浮かべ、ベラによるベラのための楽園の創造をたくらむ。出生の負い目から闇に隠れて生きていたゴッドの意思を引き継ぐと共に解放された、光降り注ぐ孤独のない楽園を。
そこには仲間もいるし、善もあれば、悪もあるのだ。


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