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死にたくなったらカキフライ

ずっと楽しみにしていた週末が来た。久しぶりに恋人と過ごせるので、張り切って楽しみなことを紙に書いて、それを眺めてにこにこしていたのがなんと、水曜あたり。

昨日はオムライスを食べて(出先で食べるオムライスのなんと楽しいこと)、印象派 画家たちの友情物語、なる展示を見にアーティゾン美術館へ行った。数年前に広島へ旅行に行ったとき、ふらっと入った美術館でたくさん印象派の絵を見たのを思い出してうれしかった。
金を払って絵を見るというのは、めちゃくちゃ良いシステム。。

上野の美術館は人と鳩が突進してくるから苦手だけど、アーティゾン美術館はそんなに混んでいなくて居心地が良かった。(今なら隣でビルを建てており、かなり迫力ある工事現場を見られる)若い人たちがしきりに展示物と一緒におしゃれな写真を撮ろうとパシャパシャしているのがちょっとうるさい時あるけど。。「展示物」をさらに自分との写真で映えさせるってすごい。

帰宅してから恋人が超爆睡してしまったので、最近文庫を買った『死にたくなったら電話して』を読む。きっつ。。。(個人的には人類の悪意についてもっと踏み込んだ話するかと思ったけど意外とあっさりだった気がする)

生きるって、長生きするって、そうして塵が積もってゆくこと。そんで私は塵を金の粉と無理やり思い込むのは嫌やし、塵は塵やって言っときたい。人生経験なんて塵でしかない。

生きてる限り何かしらの型に嵌められる/嵌ること、不本意に本来の自分とはズレていくことなどが、「塵が積もっていくこと」と言及される。

このあと「塵が積もらない生き方は無い!死ぬか!!」的な会話へ続いていくけど、「本来の自分」なるものを、ボールみたいに放り投げたり、抱えたり、時には身失えるようになったのはいつからだったか考える。
そして、もう「生きていくしかない」「生きていこう」と思えるようになったのも、いつからだったか。たぶんとても最近のことだと思う。

クソみたいな世界、クソみたいな人類でも、滅亡するまで生きていくしかないという気持ち。私は、この気持ちの大部分が、自分自身への祈りかもしれない。。


もやもやしながら眠って、恋人とちょっとうまくいかなくて朝泣いた。
恋人と「うまくいく」「うまくいかない」という表現あんまり好きじゃないけど、結局我々が「うまくいっている」のは、関係をこれ以上先へ進めないように、静かにしていたからではないのか。
そもそも、人との関係って、たえず前へ進めていかなきゃいけないものだろうか。。そうは思わないけど。
数年前は「人との関係がこれ以上先へ進まないこと」が怖かった。
いまは、「これ以上進めていく必要がある」のなら、それが怖い。そんな必要は、願い下げだ。

洗濯機を回して、小雨が降るなか投票へ行き、出かけるついでにファミレスまで足を伸ばした。
全然美味しくなさそうだったが食べたかったのでカキフライと、まったく合わないがコーンスープを頼んだ。ファミレスのコーンスープを飲まずして帰れない。

コーンスープが圧迫したせいか、ちょっとカキフライを残してしまったけど、
食べ終わる頃にはもやついた、取り急ぎこの世から消えたいです(なんだろ、『勝手にふるえてろ』でいう「絶滅したい」って気持ちに近い)って気持ちがすっきりしていた。仕事最悪だし恋人に言いたいことが伝わったのか微妙だし、読んだ本はきっついし。だけど、意味がないことをして、意味がないということを確認し続けたり、意味がありそうなことをして意味が無かったときに、それでいいと心から思えたり、他人に思ってもらえたとき、どうしたって元気が出る。元気を出すことができた自分が素晴らしすぎて、特に死にたいわけではなかったんだけど、日記にしてみた。

セブンでフィナンシェを買います