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重さを手懐ける

来週からまた仕事がばたつくので、いまのうちの休息、ということで、午後お休みを取って近所の喫茶店へ行ってきた。暑すぎて絶対外になんか出られないと思ったけれど、むしょうに外で本を読みたくなっていたので、なんとか日傘をさすことで到着。

たのんだホットケーキ、ぜんぜん映えない楕円(ばかでか)×2で笑ってしまう。店員さんが異様に優しくて、なんか全員親戚みたいなあたたかさだった。


おじいちゃんおばあちゃんの雑談があまりにも元気よく楽しそうで、にこにこになりながら、村田沙耶香ほかアジア作家のアンソロジー『絶縁』を読む。「存在するのに疲れてしまったんです」。思えば、1番古くて、1番大きな私の驚きは、夜な夜なトライして悟った「何も考えないことはできない」かもしれない。

まだ小学校低学年、マンションに住んでいた頃、眠れない夜は「何も考えない」をどうしたら出来るかについて、よく「考え」た。目をつむって無になる、つむると「つむる」ことを考えてしまうから、目を開けたまま無になる。なんと、「考えない」にはたどり着けないのか、そんなことって!と思いながら、夜な夜なトライしては挫折した。

たまに、本当に一瞬、「何も考えない」ができたかのような錯覚に陥ることがあって、そういう時は決まって、「わたし」が私の器からはみ出そうになる感覚があって、脳みそと皮膚の境目がヒヤッとする感覚、私は「エア幽体離脱」と呼んでいたけど、大事に大事にその感覚をとっておいて、だいたい20年も経つ。


本を読んでいると、登場人物が幼い頃に不思議だったこと、嫌だったことなどが書いてあって、そういった描写で「私は一人じゃないんだ」と救われることがある。加えて、往々にして「自分は幼い頃の感覚を大切にしすぎているのではないか」とも思う。というか、最近は後者を感じることのほうが多い。


漠然と不思議だったこと、うれしかったこと、気持ちがいいこと、日々、やっと言葉に出来ること、出来てしまうことは増えるけど、言葉にすればするほど、自分が重たくなっていく気配がしてならない。15時の帰り道、ホットケーキもコーヒーも残して、ぼうっと歩きながら考える。

けれども、自分が重たくなっていったとして、本当の本当に、自分がたったひとりになったとき、結局私を迎え入れてくれるのは、私と一緒にいてくれるのは、その重したちである気がするのだ。手離さず、忘れずに、かといっていつまでも同じ地点で体育座りをしていないで、どうやって進んだら良いだろう。自分の重しを手懐けている人は本当に魅力的だ。


幼稚園の前を通りかかった。不思議だったこと、「何も考えない」はできないこと、図書館のにおいはどこから来るのか、自分のしゃべる速さは普通と思っていたのに、いつから「子ども」のしゃべり方はゆっくりになるのか、びっくりしたこと、そこに咲いている白い花、可愛いのに名前に「どく」がつく、しかも爽健美茶に入っていると知った時。プーアル茶の正体は今もよくわからない。

近所の子どもたちの声で爽健美茶のあの歌が再生されて、気づいたら、もうお家についてしまった。うれしい。涼しい。白い花ってやっぱり可愛い。今日は、ちょっとだけ手懐けられた気がする。





セブンでフィナンシェを買います