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Vol.1 You Are Not Fucker

あけましておめでとう。

俺からの年賀状のつもりで書き始めたこの文章。けど、2023年、俺からわざわざこれからもよろしく、なんていうつもりもない。これから先を保証するのは俺の役目でもなければ俺たちの音楽を聴く人間の役目でもない。どう足掻いても俺たちは音楽でしか繋がっていないのだから、約束を超える強固なつながりを望むのなら、俺たちはこれから俺の作る曲にその未来を託すしかないのだ。2023年、期待しておいてほしい。

2022年、俺の身にはいろんなことがあった。言葉に出すのも躊躇われるほど、それはそれは色々と。その出来事たちのもたらした負荷は俺の心を徹底的に踏み砕き、原型を一つたりと残すことなく壊れたものが残った。結果、俺は大いに狼狽え、混乱し、無様な姿を晒すことになってしまった。そして、一つ一つ、かつての俺が積み上げたものは現在の悲しみや苦しみで色褪せていって、やがて輪郭を失っていったように思う。

年末、昨年最後のライブを終えてからも俺たちは数回スタジオに入った。10月のツアーと、それとほぼ同時並行的に行われた新譜の録音を終えて以降、俺たちの週に一度か二度のスタジオで鳴らされているのは、全てがその未来のための新曲だった。ライブを控えていようがお構いなしにひたすら出来立ての新曲を体に叩き込んでいく。古い曲はただの一度もまともに演奏されることはなく、結局そのままゴールテープを切って2022年は終わりを告げた。

今年の夏を終えた頃だっただろうか。普段表情をあまり変えることがないレイが、俺が日々制作中のデモを先につまんで聴いて、そのたび、大いに狼狽えていたのを覚えている。はっきりと言葉には出さなかったが、持ち込まれた新曲の数々を聴いて、これから歩みを進める音楽への不安や困惑ははっきりと伝わってきた。いつだったか、遠征先のホテルで二人で酒を飲んだことがあった。件の新曲群に対してなにやら捲し立てていたが、酒のせいもあって具体的には覚えていない。だがなんとなく、確たる理由はないのだが、この曲たちでこの変な男にこのギターフレーズを弾かせることには価値があるな、と思った。

完成したデモをレコーディングの終了から数日かけて聴き込んできた3名とスタジオで音を合わせる。その日からずっと、狼狽えたであろうがリズム隊二人は表情を変えず、俺が作ってきたデモのリズムを再現しながら黙々と演奏し、俺がいつものように細かな指示を出しながら変更を加えていく日々が始まった。レイと俺は都度都度、まだまだギター素人の俺が考えたいびつ極まりないフレーズを元に、コード分解やアレンジの認識の共有を雑に決めてまとめる。最後は永遠にメトロノームに合わせてビートを刻み、ただただ演奏を反復して練習した。こんな地味な作業を大至急必要とされるほどに、何もかもが新しい毒を食らうには骨が折れる。そうして、年内最後のスタジオを終えて、俺は電車で帰路に着く面々と別れ、甲州街道をチャリンコで飛ばしながら自宅への家路を急いだ。片道50分。寒さで悴む手でハンドルを握り、練習スタジオから遠ざかっていく。

連続した過去の出来事や自分の歩みは決して否定することも捨て去ることもできない。死ぬまで自分の背中について回るし、時には重く背負わされる羽目になる時もある。それでも、仕方のないことだが、記憶や思い出は色褪せる。それは記録でしかないと悟る。いつまでも並んで、手を繋いで歩けるわけじゃない。遥か後方で、みんなが俺に手を振っている気がする。そんなみんなに、俺は手を振り返すことはなく、ただ、たまに思い出して笑うだけ。背中で感じるだけ。そんな俺の中に、実際にほんの少しだけ残ったのは削ぎ落ちて圧縮された何かの塊と結晶。それを握りしめて、俺はまた曲を作る。過ぎ去ったみんなや褪せた出来事に意味を持たせるために。どうやら、これの繰り返しでしかないことに気付かされた2022年。遅かったのか早かったのかはわからない。ただ、もう戻れない。戻らない。

2023年、初日の出は新居となった三鷹市にある広めの木造アパートのベランダで、一人、寒さに震えながら迎えることになった。大晦日の夜から新年の深夜まで、それなりの量の酒を煽って、体力の尽きた体は這う這うのていで帰路に着いたのだが、どうにも眠るにはいろいろなことを考え出してしまい、無意味に冴えてしまった頭と言い表せない無念の情は瞼を閉じることを許してはくれなかった。結局、潜り込んだ布団を剥ぎ取って、ベランダに立ちすくみながら夜を徹することを決心。表に出て朝焼けまでの一時間かそこら、静かに過ぎる時間の中で手持ち無沙汰になった俺は、帰り道のコンビニで1000円札と交換したタバコの封を切って、煙を肺に流し込むことにした。

ベランダは日の昇る方角に位置している。待っていれば夜明けと共に俺を明るく照らすだろう。引っ越して早々に既に山盛りになったガラスの上に黙々と灰を落とし、吸い殻を時間ごとに量産する。そこそこの風に吹かれて、こんもり積もった灰が空を舞ってキラキラ光りながら流れていく。徐々に白んでいく空とそこに混じって色を失っていく闇を顔真っ正面に大いに浴びながら、驚くほど無感動に頭を回転させる俺。無邪気な気持ちで空を眺めているわけではない。眺めてきたわけではない。眺められたことなどない。「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉の通り、空とはただ美しく、そして平凡にそこにあるわけではなかったことを俺は知っている。人を罰するかのように見下ろす空。それでも、そんな空の下で人たちは精一杯喜びを享受し、無理矢理に悲しみを癒し、時に罰を与え合い、ツケを払う。そして生きる。

住宅街に建つ家々の隙間を縫って光が差し込んでくる。もうあとわずかで太陽は見えるだろう。なんとなくその景色があるなら、今聴かなくちゃいけないと思って、すぐにゼンハイザーのイヤホンをつけた。耳を刺すのはやかましいフィードバックノイズから始まる長い長い曲。17の俺が5年かけて23の歳で録音した曲。今となってはそれは懐かしく、そのくせにいつもそばにあって俺を俺たらしめてきた。録音しなおしたそれは、紛れもなく俺たちの新しい音楽に変わっていた。いろんな人に貸してもらった光で命を繋いだ俺は、その光を歌に作り替えた。次は俺がきっと誰かにそれを貸してやって、また誰かの命を繋ぎ止めようと決心した日から、俺は「あなた」へと呼びかけることをやめない。どこまでいっても俺は人に歌うのが好きだし、人のために生きるのが好きだから。

俺たちは1stマキシシングル「FCKE」…’’You Are Not Fucker’’をリリースする。ジャケットや発売日など、詳細はまだ明かせないが、収録曲は「世界」と「GOOD LUCK HUMAN」で、500円で売ることにした。

タイトルは、「FUCER(クソ野郎)」から、「U(You)」と「R(Are)」を「No(Not)」して、「FCKE」。ちょっとした洒落でもあり、この言葉への俺個人の思い入れの深さもあり、このタイトルになった。

かつて俺の暮らしていた家は、大袈裟な表現でなく、とてつもない無法地帯だった。お世辞にも広いとは言えないワンルームで、いい加減な奴らと過ごした思い返したくないような、けどいい思い出だったような時間。自分の家だったのに、妙に不思議な空間だった。みんな自分の家に帰ればいいのによく俺の家で寝たがったし、居場所を失った奴らが取っ替え引っ替え俺の家に住み着いていた。

ある日のこと。まだ今ある曲が出揃っておらず、初ライブのステージすらも踏んだことがなかった遠い昔、ある馬鹿な友人たちと俺がおかしくなって、これまた別の友人がかつて置いていったクレヨンで部屋の壁にこぞって落書きをする事件があった。下手くそな絵を描いた。好きな歌詞や心に響いた名言を書いた。品性のかけらもない、ヤニで薄く黄ばんだ元は白い壁に、色とりどりの落書きを重ねていく。そのカオスの中に、俺がふと書き殴った言葉が、今回のシングルタイトルの由来だ。落書きは翌日、シラフになったみんなで笑いながら頑張って消したけど、この言葉は俺の胸に残って消えなかったのだ。

今となっては意味不明な言葉に思える。どうせ、若かった俺は浅慮と短絡に支配されたまま、無意味に、思いつきとか、適当とか、フィーリングで書いたのだろう。けれど、なんだかその語感の良さと、そして、訳してみると「お前はクソ野郎じゃねぇ」という意味を持つその言葉の、乱暴に断言し切る図々しさとさりげなく他者を思う慈しみが、今に至るまでさりげなく俺が音楽をやる上でのキーワードになっていったのだった。

収録曲は今後の俺たちを背負わせるつもりで、文字通り命を削ってレコードした2曲。これまでで1番荒く、そして深い音像に終始したそれを作り上げたのは、声にならずに飛んでいってしまった絶叫、旋律や和音じゃなくて魂、人間にはミュートするのが不可能なノイズギター、リズムを超えて空間のしなる音を閉じ込めたベースドラム、過去のCRYAMYの全て、約束された未来の俺の結論。

打ち砕かれてただ皮がへばりついてるだけの骨の塊になった俺の春をペンをノートに走らせて生き延びて、迎えた無意味な唾をアスファルトに吐いた夏の日、「これで終わってもいい」と誓って夢想した2つの空の形。メロディと歌詞でそれを、まるで刺青みたいに自分の体に刻んで、強く吐き出すことを諦めなかった。原型をとどめなくなるほど演奏し、耳から膿が出るまでデモを、ラフミックスを聴いた秋。そして冬を終えて、これが世に出ることが許されて、それをいうことが出来て、また俺はなんとか人間に戻ることができた。

アンセムというものはどんなに優れた音楽家でも、人生でいくつも作れない。わかっている。だから俺の、下手したら最後になるであろうと覚悟して作り上げて、出来上がった音楽。命なんかかけなくていい、と言ったくせに、もうここで終わっても構わない、と思って書かれた歌たち。ある人には置き土産になり、ある人には特別な核になり、ある人には自分の歌になるだろう。そして、俺にとっては恐らく、楔であり、揺らがない軸であり、永遠の誓いになる。

レコ発ライブはワンマン。「CRYAMYとわたし」という我々の独演ではお決まりのスローガンを掲げ、そこに「世界を救う漢たち」と銘打った独演を渋谷クアトロで開催する。2023年3月29日、全国から渋谷クアトロへ、必ず足を運んでください。これまでで1番のライブになる。

このリリースの祝祭は、渋谷にはじまり渋谷で終わる。全国ツアーはなく、たったの一度きりのライブ。そりゃそうだ。この日は世界を救う日で、俺たちの最高傑作を提げてこれまで費やしてきた時間を全て賭ける日だ。そんな重大な日はやり直しや再挑戦が許される訳がない。後にも先にも、俺たちはこの日をもってもうなにも残さないし、残せないほど全てを吐き出し尽くす日になる。俺たちのワンマンライブというのはそういうものだ。

演奏にはなんの心配も不安もない。俺たちは誰より練習してきた。そして誰よりもぶっ壊れる準備ができている。
フロアに求めることはたった一つ。俺たちを一瞬たりと見逃さず、聞き逃さず、感じ損なわないこと。
俺はもうすぐ27歳になる。一足先に脳天ブチ抜く覚悟で、捨て身で死ぬ気で、死んでもそこにある全ての命を拾いにいく。

現実も空想も、希望も絶望も、陰も陽も、0点も100点も、喜怒哀楽も、青春も老いも、一瞬も生涯も、何もかもが砕け散って混ざり合う夜にお会いしましょう。

俺たちに世界を救えるか?

俺たちに世界を救えるか?

俺たちに世界を救えるか?

俺たちはあなたが生きててほしいだけだ。

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