事実を淡々と指摘する学問か、感性を淡々と記述する芸術にしか興味が持てなくなった

最近、事実を淡々と指摘する学問か、感性を淡々と記述する芸術にしか興味が持てなくなった。

要は、植物学みたいな分野か、文学みたいな分野にしか興味が持てなくなった。


脳神経学みたいな中途半端に科学的で中途半端に研究者個人の感情が介在するような学問分野に、興味が持てなくなった。


何故かっていうとそれは以前から僕を蝕んでいる「人類存在そのものへの不信」に因っている。

「人類は下等な存在であるから、人類の呈する主張・仮説もまた下等である」というロジックである。




例えば「これは薔薇という花だ」「薔薇の生態はこうだ」という淡々とした記述、単なる情報の羅列には興味をそそられるのだけども、「人生において薔薇はこういう意味を持ち得る(と私は考える)」という主張には、興味が持てない。




実は最近になって今更ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』を読んでいる。
名著として誉れ高い事は知っていたのだが、イマイチ興味が持てなかったのだ。
食わず嫌いもなんだからようやく文庫版を上下まとめて購入して今読み進めているのだけども、僕は「こういう本」には10年前や5年前ぐらい前には良くも悪くも素直に感動したかもしれない。
でも、今の僕には「この手の本」はイマイチ魅力的に映らない。

上に述べたように、この手の本は一見科学的なようで結局はダニエル・カーネマンの私見(もっと極端に言えば感情論)でしかないし、それは天啓であるとか啓示ではないからである。
ダニエル・カーネマンは神ではなくあくまでもホモ・サピエンスの一個体に過ぎず、つまり所詮はただの哺乳類であり、たかが哺乳類が一生懸命打ち立てた自論にどの程度の正統性があるのか、僕には疑わしい。




そんなわけで最近の僕はイマイチ、なるべく人類個人の感情が介在しない……ただ淡々と事実を羅列する学問分野か、或いは文学はじめ芸術などにしか興味を持てないのである。


文学や芸術の魅力は、「科学ヅラ」をしない点にある。
脳神経学はじめ行動経済学のように科学ヅラをハナからしないので、これらに関しては「その非論理性」も含めて割り切って楽しむ事ができる。

敢えて非科学性を積極的に楽しむのが、芸術の面白さだと思う。それは「我々は神ではなく、所詮ただの哺乳類であるという現実」を直視する営みと、イコールである。だから文学や芸術は面白い。




僕が古典を愛するのは、古典は(当時の科学の未発達ゆえに)如何に科学的っぽい切り口の書籍でも単なる文学でしかない点にある。

例えばハンナ・アレントの書籍は科学ヅラをしないし、オルテガの書籍も科学ヅラをしない。岡本太郎の書籍も科学ヅラをしないし、一見歴史書の体裁を採るエドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』もまたエドワード・ギボン個人に拠る歴史小説の域を出ない。
イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』も社会学の体裁を採るがなんら統計的な調査に依拠しておらず然るにイブン・ハルドゥーン個人の随筆みたいなものである。

故に古典は牧歌的であり、愛おしいのである。


他方で、『ファスト&スロー』はじめ山口周の一連の書籍なども(まぁ僕個人は嫌いじゃないのだけども)中途半端に科学の体裁を採っていて、「○○大学の実験によると~」「△△の論文によると~」などとその正当性をやたらと主張したがる。
でも実験にせよ論文にせよ多分に研究者個人の感情が介在するのだから、それは必ずしも完全に科学的ではない。本当の意味で宇宙の事実を淡々と記述し得ない。

従って近年の僕は『ファスト&スロー』みたいな感じの書籍や学問分野には、のめり込み切れない所がある。

また、この手の書籍の内容を峻厳たる宇宙真理だと信じて疑わない読者の群れにもウンザリしてしまう。
この手の書籍は一見科学的っぽい体裁を採りつつも結局は著者個人の私見(もっと言えば妄想、願望)の域を出ないというのに。




――――という、僕個人の「情報観」の変化を、淡々と記述してみた。おわり。