天性のハードワーカーはやり切る事でしか幸せになれない

改めてフと思うに、天性のハードワーカーはやり切る事でしか幸せになれないのだと思う。

徹底的にやり抜いて、「どう足掻いてもこれ以上は無理!」って領域までやり抜かないと安心できない。
少しでも余力を残す事を許せない。
「その気になればもっとやれるのに、やらない自分」を許せない。


これは、いわゆる完璧主義ともちょっと違うと思う。

少なくとも僕の場合は、「徹底的にやり抜いた上で尚、自身の力不足で満足いく成果が得られなかった時」は別にシンドクならない。

僕の場合は成果が良かれ悪しかれ、「やり抜かない自分」「余力を出し切らない自分」に憎悪を抱く。

きっと全力を出し切った先に見えるセカイが僕は好きなのだと思う。
やり切ってしまう事はある種楽(らく)でもあるので、きっとその逆転した気楽さが僕は好きなのだろう。




昨今もてはやされるイージーな生き方(というかヒッピームーブメントはじめ、この手のイージーな生き方願望は、常に人類文化にヘルペスのように固着しているのであるが)もそれはそれで結構だし、事実そういう生き方で当人なりの本物の幸福を得ている人もいるのかもしれないが、少なくとも僕から言わせると、そういう生き方は逆に気楽じゃないのだ。

僕から言わせるとその手のイージーな生き方或いはノンリスクな生き方は却って怖くて、リスキーなのだ。
誰かは忘れたが経営者的な人の誰かが「リスクを取らないのがリスクだ」みたいな事を言っていたと記憶しているけども、要は僕が言わんとしている事もそれと同義だ。

イージーな生き方は「運がいい内は」大過なく過ぎていくけども、いざなんらかの変動が起きた時には、イージーに生きて来た人はきわめて無力だ。
変動期においてその手の人種は為す術もなく淘汰されていくしかない。
それが、僕には怖い。


僕は怖いからこそ……僕は己の「慎重さ、用心深さ」がゆえに、徹底的にリスクを取り、ハードワークをしないと安心できないのだ。




徹底的にリスクを取り、ハードワークし、死力を出し尽くしていれば、仮に悲劇的な末路を迎えようとも「これだけ頑張った上で駄目だったんだから仕方ないじゃないか」と堂々と死んで行ける。


しかし中途半端にイージーに生きて、その途上で厄介事を抱える事になれば、その人はこれまでの生き方を後悔する事になる。


問題が発生した際、或いは悲劇に見舞われた際、実のところそれが果たして自身の努力不足が故なのか……それを判別する事は難しい。

結局の所人生には運の要素も多分に絡んでくるから、努力した所で駄目なものは駄目だからである。
だから悲劇に見舞われたとしても、それはただ単に運が悪かっただけなケースもある。努力不足が原因だったのではなくて。


でも、こういう時だって努力をしてきたからこそ「努力したけど駄目だったよ……」と諦められるわけで、努力を怠っていればそれが努力不足が故の不幸なのか、努力云々を超越した不幸なのかが分からない。

だから、努力をせずに生きてきて不幸に見舞われた人は「あの時もっと努力していれば不幸を避けられたのでは……」と延々に悔恨するハメになる。


僕は、これが怖い。


「あの時もっと努力していれば……」と延々に悔恨するような人生を歩むのが、怖い。





思うに、僕がこんな人間なのには複数の要因が絡んでいる。
ざっくり言えばギフティッドネスと愛着障害。


僕は所謂ギフテッド的な人間であり、そのせいでアホみたいに知的好奇心が旺盛すぎて、本来休むべき所でも死ぬほどハードワークしてしまうし、自身の身の危険よりも知的好奇心が上回ってしまい危険な賭けに出てしまう事も多い。
そういう要因から僕はリスクテイカーであり、ハードワーカーなのだ。




要因はそれだけじゃなくて、家庭環境の悪さもあったろう。

僕は実の両親はじめ親戚までもがちょっと色々アレで(なんていうか、横溝正史作品の旧家みたいな環境だった)、そのせいで所謂「安全基地」を持たずに子供時代を駆け抜けてきた。

僕にとって周囲の大人は誰一人信用できず、僕はいつ何時大人達の都合で命を奪われるかもしれず、そうした状況下で僕は生きていくしかなかった。

そんな前半生だったから僕にとって僕の命とはいつ何時他者の都合で奪われてもおかしくないものであり、それがために僕は常に気を張って外敵(親類縁者)に対処するとともに365日24時間にわたって出来る限り生存の努力をしておくしかなかった。
そして、それでも尚最終的には理不尽に命を奪われる覚悟を、常にしておく必要があった(例えば、起きてる最中にいくら気を張っていようとも、就寝中に包丁で刺されたら死ぬしかない)。

だから僕にとって、いわゆる「日常」は縁のないものであった。


それがために僕は病的なハードワーカ―であると同時に、自身の徹底した努力が理不尽に裏切られることをも覚悟し受容するという、不可思議な精神性を身に付けた。




あとはまぁ僕はちょっと発達障害っぽい所もあるので(そもそもギフテッドと発達障害、愛着障害と発達障害との判別の困難さは以前から専門家から指摘されているので、素人の僕がそれらを判別しかねるのも当然である)、その辺からくる好奇心の偏りや休息を適切にとる事の困難さもあるだろう。

でもまぁきっと僕が「こう」なのは、上に挙げた二つの要因……つまり先天的な高知能からくる病的な知的好奇心の旺盛さ(による休息を後回しにする癖)と、アホみたいに劣悪な環境で育ってきた事による自他への根源的な不信とそこから生じる「徹底的に努力し切っておかないと安心できない」「いつ死んでもいいように生きておかないと安心できない」という精神性に起因するのだと思う。


ひとつ言えるのはそんな(標準から見れば)病的な僕の精神性ですら僕のかけがえのないアイデンティティなのだから、僕は僕のままに生きていくしかないのである。

「生きていくしかない」っていうか、“そういう風に生きていってもいい”のであろう。




だから僕は徹底的にリスクテイカーでありハードワーカーで在り続けるし、それがために僕が幸福や安寧を感じるのは徹底的なリスクテイクとハードワークなのである。

世間一般で幸福や安寧をもたらすと言われるノンリスクやイージーライフは、僕にとっては焦燥と不安の種でしかないのである。




……思えば、戦後日本人たちがどこか病的なまでにハードワークに勤しんでいたのは、彼ら彼女らの精神性が根本的には僕と通じていたからかもしれない。
戦争体験によるトラウマが、その虚無感が、彼ら彼女らを強迫的なハードワークに駆り立てたのかもしれない。

石ノ森章太郎や手塚治虫も病的なハードワーカーだった。

僕は現代文化に興味がなくて昔の作品ばかりを漁っているのだけど、それは結局はこういう事に起因するのかもしれない。
戦後日本人たちが抱えていた心の傷と、それが生み出した当時の文化が、僕と共鳴するのかもしれない。

それは確かに悲劇的なハードワークだったのかもしれないけども、しかし一方でそういった心の傷が数々の名作や名優を産んできた事を思えば、同じく不幸な僕の境遇も幾分救われる所がある。


天性の才と、それとは不釣り合いに劣悪な前半生を併せ持つ僕の特異な精神性は、昨今のイージーな世情からは遊離してしまっている。
だから僕はいつだって孤独だ。
しかしこの心地のいい孤独の中で、僕はかつての戦後日本人が心の傷をばねに羽ばたいて見せたように、僕もまた泥臭く羽ばたいていくしかないのであろう。

僕にとっては大地が心地のいい物ではないのだから、僕は大地に根を張って生きていたって仕方がない。映画『イージーライダー』の主人公は「根を張って生きるのは素晴らしい事だ」と言っていたが、僕には無縁の世界だ。
だから僕は常に羽ばたいて、居心地の悪い大地と、その大地の上を這う獣たちから距離を置く必要がある。

だから僕は羽ばたき続けるしかないのである。
強いて言うなら、鬱蒼とした森の巨木の上でつかの間の休息をとる事はできるかもしれないが。




気付いたら「ハードワーカー全般」ではなく「僕個人」に考察の主軸が移ってしまっているが、つまりまぁそういう感じである。

そんなわけで少なくとも僕は、昨今のイージーな世情と馴染む事もなく、血みどろのハードワークに明け暮れていたい。


結局僕が安寧をおぼえるのは、もう無理!って天井まで死力を出し切ってヘバっている僅かな時間なのだから。
その極限のやり切った感と疲労感とが、僕にとっては父母のぬくもりの代用品であり、安全基地なのだから。