自己肯定感がどん底なので命拾いした話

突然ですが、僕は自己肯定感がまるで無いです。その影響で様々な支障が出ています。自分のことをどうでもいいと思っているので生活もやることも崩壊していくし、楽しい時にふとこんな感情になって烏滸がましいと身を引くこともあります。こんな矮小な人間を見捨てずにいてくれる人がいることが恵まれすぎていて違和感を感じ、人間関係を破壊してリセットを試みようとしたりします。

そんなんでどうやって生きているの?と聞かれるとどうやって生きているんだろ…って疑問なのですが、美大時代を振り返るとこの精神が僕を救ってくれたのだと思えるようになりました。ちょっとは自己肯定できてるのかなという記念に美大でのことをこっそりたくさん書いていこうと思います。

自分が作る意味を求められる環境

美大という場所に行く前から僕は何かと悲観的な性格でした。なんとなく色々作ってたから行っただけで、何が作りたいかというのは漠然としたものしかなかったように思います。さて、そんな中で周りは自分の上位互換です。自分がやりたかったことを隣の席の人がやっている。その中で僕は早々に元々持っていた小手先の映像スキルを、他のスキルで補完してなんか別のことをしようと画策しました。

僕の所感ですが、「絵が上手い人は3DCGが上手い」という現象があります。光や物の捉え方がすでに完成されているので、求めるものを出力しやすいのでしょう。
視覚に訴えるアートはすべてある程度の応用が効く(色彩などの基礎はどうしても一緒なので)とすれば、僕のやりたかったことをやっていた隣の席の人はもちろん「僕がやりたかったことから逃げた先のこと」も得意でした。

僕は、「僕が作る意味は無い」と諦めることにしました。

ともすれば、これからの大学生活で何を作っていけばいいでしょう。作らなければ単位はもらえず、生半可なものを作り続けていれば4年間の計600万円の学費は無駄となります。

そういえば僕にはたった1つ、持っているものがありました。それは絶望的なまでの自己肯定感の欠如、破滅願望。
僕は残りの時間、それを武器とすることに決めました。スキルを捨てて、込める呪詛にガン振りするのです。

自分が作る意味はないから

さて、そうと決めたからには作らなければなりません。まずは1回生。他人に手を差し伸べられない自分への無力感に溺れていく女の子のお話を映像にして作りました。今見ると稚拙ですが、この頃の作品には飾り気のない本心のようなものが見えてなんか眩しさすら感じます。
それもそのはずで、実は自分に愛想を尽かして方針を固めたのは2回生の後半からなので、まだたのし~~~~!!って叫びながらシェイプレイヤーを並べてた覚えがあります。

2回生ではいくつかやれることが増えました。3DCGがその最たるものです。今でこそ毎日のように使っていますが、当時は3DCGに親を殺されており決してその手は借りないと固く誓っていました。そうでないとあの嫌いようは納得できません。

それでもなんとか課題をこなしていく中で、特に覚えているものがあります。今も結構気に入っていて、僕のスタイルの原点を形作ったと言っても良いかもしれません。
その課題は、360°映像でした。前から後ろに進むカメラを利用して映像を作る、というものです。
色々考えていたのですが、ふと「360°映像なんだから後ろも面白くないとだめじゃん!」ということで、「前後で楽しめる」をテーマに考えていきました。

上を出力しようとしたとき、実際のファイルは下のように歪む。赤が前半分で青が後ろ半分

どうやら360°映像というのは1枚の動画を歪ませて作っているらしく、その性質上左右に垂直な部分が発生するためそこで区切れば簡単に別の動画を差し込むことが可能なようです。そうしてできたのが、「前後で時間軸の違う別の映像が流れる360°映像」というコンセプトでした。2つの映像を前後で差し替えるので、単純に作業量は2倍で苦しかったですが、当時はまだバイタリティがありそうです。

「正面を昔、後方を現在とし、震災で失われた母校を思い出に浸りながら歩く」とかなんとからしいですが、明らかに汚しが足りません。クオリティ不足です。でもそれで構わないと思っていました。今も思います。僕はここでもう一つの武器である、「メディア」を見つけることになりました。自分が作る意味はないから、その見せ方である意味だけは持っておこうというわけです。

「作った人」にしか「作る人」を描くことは許されない

しかし2回生の後半が苦しく、隔日3時間睡眠を続けていた結果完全に壊れました。この頃にはよくヨルシカを聴いていたので「人物を撮れない写真家と、その代わりに写真に理想の人物を描き入れる絵師のボーイミーツガール」みたいな作品を作っていたのが、ぱたりと止まりました。作れなくなりました。
それを2回生最終課題にする予定でいた僕は焦りました。どれだけ練った作品も、作ることそのものが嫌いになってしまってはどうしようもなかったのです。

僕にできることは限られました。土下座して単位をもらうか、持っているもので戦うか。

作品を作ることはできません。苦痛です。あとはメディアへの興味と自己嫌悪のみ。

とりあえず足掻くことにしました。流れはこうです。作ることは嫌い、でも作らなければ生きていけない。苦しいと叫びながら動画を作り、それをYouTubeにアップする。こういう内容の動画を、YouTube上で見せる。オタク大好き入れ子構造です。

結果を言えば、この作品は未完成で終わりました。「声が出せない!」と叫ぶことができないのと同じで、作れない人にそれを作品で表現するのは無理な話です。僕が今までやってたのが工程の多いアニメーションだったというのも一つの敗因でした。

さて、ここで牙を向くのもまた低すぎる自己肯定感です。
思えば、ずっと作品が完成したことはありませんでした。1回生のときはかなり尺をカットしたし、360°もクオリティ面で問題があるし、何よりこのつい数ヶ月前に断念した大きな作品。これまで、納得はできても満足のいく段階まで作れたことはなかったのです。
「未完成しか作れない人間が、作る人として作品を作るのは烏滸がましい」
作るしか無い。作るしか無い。

この頃が一番地獄でした。そして、地獄は狂気を生み出します。

精神も身体も閉じた2020年

2回生の春休みは冬眠のように眠りました。そして3回生。ここで例のアレがきます。コロナです。
オンライン授業になり、そんな中で確実にこれから莫大な需要がやってくる、YouTubeを利用した作品を作るという授業がありました。まるでリベンジマッチです。
正直なんでこんなものを考えついてしまったのか全く覚えていないのですが、「2つのアカウントが交錯して物語が進んでく動画」というものを作ろうというところまでは順調だったように思えます。気づけば、「1年間告知もせずにひたすらに余命1年を過ごす2人の物語を描き続ける」という狂った企画がスタートしました。ちなみにこの授業の担当がのきあ先生でした。ドン引きしてたかもしれませんが、僕も彼のBaby Walking Simulatorを見てドン引きしたのでおあいこです。

そこから半年間、隔週で月曜日に動画を上げ続ける生活が始まりました。スキル向上も兼ねていたのでできるだけ毎回技法を変えつつ、誰も見ていない再生1の動画をひたすらにアップロードし続けました。
この作品は間違いなく僕の低すぎる自己評価が作り出したものだと思います。人に見せられたものじゃないから、社会から孤立した人を孤立した場所で描く。そして自分も一人で作り続けていくことで孤立していく…
SNS時代のコンテンツをつくる授業の趣旨の真逆を行くようなこの作品を許容してもらえたのは幸いでした。
しかしあまりの苦しさに月曜日というだけで吐く有様で断念し、半年間で僕の未完成作品に名を連ねてしまう結果となります。

そうして僕は、ただの一度も満足のいく作品を作れることなく、4回生。卒業制作に望むことになりました。

他者に影響されること

4回生になって、卒業制作という段階で何を作るかを考えたとき、今までの集大成となる作品をと期待されるわけですが手元には未完成品しかありません。悩み抜いた答えが、「技術はいらない、考えを込めるだけでいい」という至極単純なものでした。これまでを振り返って、何を伝えたかったのかを自分の作品から読み解いていくという作業から始まり、自分自身とひらすらに向き合った結果、見えてきたものがありました。
「他者に影響されること」
これが共通点でした。僕はいつも、なにかに影響された人を描いてきました。というか大抵の物事は根本を辿るとそこに行き着くでしょう。360°映像はちょっと違いますが、思い出というものを「時間軸の違う場所にいる自分という他者」と定義すれば似たようなものでしょう。そういうことにしときます。

他者から目を背け、言葉すら出せないほどに落ち込み、自身に浸り、それでもなお自身の根幹には「他者」がいる。流れとして今見てみるととてもドラマチックです。そうして僕の卒業制作は「他者に影響されること」をテーマとして制作していくこととなりました。

さて、僕のストーリーものの作品はたいてい人が死にます。どれも未完成品ですが。
集大成というわけでそれもなぞります。後追い自殺を扱うちょっと重い作品です。
「メディアが武器」ということで趣味でちょくちょくやっていたVRを作ります。こうして「VR機器が自殺する」という意味の分かんない作品のコンセプトが4月には完成し、ほとんど変更点のないまま順調に進んでいきました。

4回生は、楽しかったです。
苦しいこともあったけど楽しいことの方が多かった。
「誰にも理解されないくらいの作品の方がいい」と捻くれていたような僕でしたが、作品のコンセプトをゼミの先生が気に入ってめちゃめちゃ後押ししてくれたのが大きかったです。誰かが良いと言ってくれるというのはそれだけで原動力になります。

最後まで他の先生方にはあまり気に入られずという作品でしたが、初めて満足のいく作品ができました。
ずっとずっと自分と戦って、自分のことがどうしようもなく嫌いで、22歳を超えて何者にもなれないなら死んでしまえとか日記に書いて、誰でもない自分は誰かと関わることなんて許せなくて、それでもなお自分の中には自分を動かす「他者」がいて、嫌いな自分の中には自分が尊敬する「誰か」の思いや行動があって、そうして形成されていった自分がまた誰かを動かしている。

自分のことは嫌いでも、自分と向き合える自分で良かった。自分に期待してなかったから、周りに気づけた。今ならそう思えます。


卒業制作を載せておきます。


よく見ると僕のアバターの黒髪バージョンだったり、下の説明文のイラストも僕のアバターになっています。
全部飾りです。ケーブルだけで100mくらいあります。
飾りです。当日は2段目をこっそりゴミ箱にしてました。
学外展をやったときのやつ。カフェで自殺するJKを流すのは心が痛かったです。

Affected Reality (2022.01)

ビデオゲームにおけるアクションとリアクションの関係は、他者とのコミュニケーションにおける影響、被影響の関係と似ている。言葉が他人の判断に影響を与えたり自身の行動の基準になるように、自身の入力という行為がゲームやキャラクターを動かしている。他者と影響し合うことは人の本質的行為であり、無意識的に行われる日常動作である。この作品では模倣と追従の本能をVRHMDにあてはめ、被影響下における行動としてウェルテル効果に着目した。HMDがプレイの結果受け取った情報に触発され、プレイヤーの入力から逸脱し後追い自殺を起こすことで見えていなかったHMDという主体を強引にあぶりだす。影響する、されることを体験を通して捉え、自己を動かす他者の存在を認識させることを目指した。

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