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引き出しの奥を覗いてみた

見たくない感情に蓋をする癖があるらしい。
冷めたら引き出しの奥底にしまって、都合よく忘れることも出来るらしい。

でも、引き出しは無限じゃないらしい。いっぱいいっぱいになると、針でつついた風船みたいに感情が溢れて、押し込んできた、整理のついてないものが飛び出してしまう。そうすると人に当り散らしたり、赤ちゃんみたいに泣き叫んでみたり、しんどすぎて生きるのがいやになったりする。

時間も経っているし、雑に突っ込んできたものだから、引き出しに何をしまっていたのか自分でも分からない。ただ、感情が溢れていることを感じるだけ。ひとつひとつはほんとうに些細なことなのだろうけど、溜め込むのが得意なものだから、溢れた反動は結構大きい。

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喜怒哀楽の「怒」を、最近全くと言っていいほど感じなかった。誰かのことを「嫌い」と思うことも、年上ばかりの環境で「同年代の友達がほしい」と思うことも、「一人が寂しい」と思うこともなかった。
どこかで思っていたし口には出したりしたのだろうけれど、少なくとも自覚はなかった。

だって、その方が簡単で、楽だから。

誰かに対して「嫌い」「合わない」と思ったままでいるより、自分を変える方が簡単だから。それを正直に伝えて嫌われるリスクを冒さなくても、気持ちを押し込めて慣れてしまえば、好かれる私のままでいられるから。

「寂しい」ことに気づいて助けを求めるよりも、自分の気持ちを誤魔化す方が簡単だから。一人を楽しめるようになった方が、「寂しいから仲間に入れて」と伝えたときに、拒絶されるリスクを冒さないで済むから。人に助けを求めて弱みを見せるようなこともしなくていいから。

そして、その方が「きれい」なままでいられるから。

人の悪口を言う、イライラする、怒る、決まりを破る、寂しがるetc...「黒い自分」は、全部消さなきゃ。消して書き換えて、裏表ぜんぶ「白い自分」で毎日毎時間毎秒生きることが、正しいことだと思っていた。外見の自分だけじゃなくて、内側まで、ぜんぶ真っ白く、「きれい」に書き換える。完璧にはいかないけれど、「いい人」って言われることが、正しいことだと思っていた。

しばらくすると、自分の内面を覗いて見ても、「黒い自分」はとっても小さくなっていて、「少し苦しかったけど、生き方を変えて、これでよかったんだ」と思った。

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でも、それは「正しい方法」じゃなかったらしい。抑えつけた黒い自分が引き出しに溜まって心が重くなるし、だんだん、自分の気持ちが分からなくなってくる。何が好きで、何が嫌いで、何が楽しくて、何が苦手なのか。

黒い自分もいるのは当たり前で、寧ろ自然なこと。それは、受け入れた上で、しょうがないなあと流してしまった方が楽、らしい。

黒い自分は引き出しにしまわず、水に流せるように、そして大事なものだけ、ちゃんと大切に取っておけるように、のこり半年、じっくり心の向き合い方を知りたいと思う。

(たぶん、2021年の秋くらいに書いたもの)

見直してみたら、森岡(2003)の無痛文明論に通じるものな気がしている。自己のアイデンティティが揺らぐしんどさから逃げて、矛盾の存在抹消とかしてると、大きな揺り戻しがくる。動的平衡ぽくもあるな。

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