面白い人、達観した人、みじめな人たち

 自分は人としてとてもみじめな存在です。
28歳といういい大人にしては
仕事も大してできなければちゃんとした受け答えができず周りを心配させるばかり、すぐに泣いて2.3時間はトイレから帰ってこないし、次の日も泣いてるし、うなぎとどじょう間違えるし、周囲から馬鹿にされるし、
嫌がらせ(根に持ってる)もされるし、ぞんざいに扱われるし、「新卒以下」と言われるくらい頼りない人間です。
これでもまとめた方なくらいこの歳にしてはあまりにも出来が悪いです。
ぼのぼのやちいかわが現代社会にいるようなものだとわかりやすいでしょう。

だからこそ自分を矯正し、受け入れるためにいろいろな視点で分析をしてきたつもりです。2回くらい軽い抑うつだったことも助けになり(もうなりたくないけど)自分の嫌な面について考える時間はたくさんありました。
自分のことだけ考えていられる分本当に恵まれていると思います。


 これのいいことと言うと他人を否定しない引き出しが増えたことです。
自分が誤解されてきた分、言葉をかけてもらったことがない分、たまに人が欲しかったであろう言葉をかけられる機会が増えました。耳触りがいいだけで自分の言葉に説得力はないと思っていたので、こっちも励みになりました


あと多少情緒がわかるようになってきました。
映画の感想が多少厚みのあるものになったと思います。
今も自己投影しないと上手く解釈できないですが、不器用な人の気持ちや行動が察せられるようになりました。胸糞映画耐性がやばいですね。裏目に出る系の胸糞じゃないと胸糞を感じなくなってきました。

それと笑いのネタの引き出しも増えたことでしょうか、日常を書くだけで笑ってもらえるんで結構手軽なんですよね、同じ銀行のキャッシュカード2回失くしたこととか、料理が下手すぎて帰り道胃が収縮するようになった話とか、私は聞き間違いも酷いんですけど犬用と医療用間違えた話とか

 で、ここまで言い回しをボカしてきましたが1番変わったのは啓発的な引き出しが増えたことです。元々難しく考えるの好きでそういう人間だった気もするんですけど、今思えば形だけストイックなだけでしたね
これが本題ですが、頭の良くない自分にこんなに啓発的な結論が増えるのって元の出来が悪すぎるからなんですよね
そうしないと自分のこと受け入れられないからです。

自己啓発って明確に足りないものを的確に補えるものでないと効果が無いと思っていて、
まあつまりそういう引き出しが多いというのはそれだけ足りない部分があるということだと思います。単にその人が偉いからということではなく
不思議なことに自分はみじめさの解像度がかなり上がっただけで、決して人として成長できてるわけじゃないんです。それを証拠に仕事ができない話ができない
ただ理論立てて受け入れる器ができただけ
それを証拠に受け入れ続けるのにランニングコストがかかるのです。
それが自分の場合負債が治らないどころか加齢と共に酷くなっていくので不安しかありません。いよいよぼのぼのの世界に行きたくなりました。


 仮説ですけど、多分真っ当に生きてる人は自己啓発とは無縁なんです。
私のような人間が自分のことだけで悩み苦しむ間にまともな人は社会や配偶者、親子供のために悩み始めるんでしょう、責任も負い始めるんでしょう。28みたいな年齢尚更そうです。
周りが自分のこと以外で考えるようになって色んな見識を広めてる間自分は自分のことだけを掘り下げてるんです。今以上に話が合わなくなるでしょう。
自分の嫌なことに向き合ってここまで考える必要普通の人ならないんですよ。ないというか、そんな余裕がなくなってくるはずなんです。
それに対して自分のことだけで28年間も生きてきたと思うと余計に情けないですね。
多分真っ当に生きてる方に自覚はないと思います。こんな発想になるのも自分が情けないからなので

達観された方と達観〝しちゃった〟人は違う
というお話でした

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