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思う分には無罪

 「1つの枠の中でさまざまなステータスを抱えた人たちが抑圧されることなく、過不足なく過ごせる社会」
を多様性みたいなワードで見かけるようになって久しいと思っています。

私自身社会の枠で見ればマイノリティの側なので生きづらさはそれなりに感じており、
考える機会は普通の人よりは多かったかもしれません。

同じようにマイノリティの自負があり、生きづらさを感じている人たちの発信もよく目にするようになりました。

あらゆる手段で順応を試みている人、
福祉や制度の改善を求める人、
現状をそのまま伝えている人…
さまざまなアプローチで主張を目にします。

社会全体で意識改革の兆しがあるものの、土壌が固まっていないからか、
声高く「多様性」や「価値観のアップデート」のワードが簡単に使われていることには、
同じマイノリティとして思うところがあるのです。


 マイノリティの理想の世界を便宜的に「価値観の多様性」という言葉を使って進めますが、(把握できないほどでかい言葉だと思いますけど)
この多様性の実現に否定のない世界を求めている方は多いと思われます。

否定がない〝だけ〟を目指すなら手段はシンプルだと思っていて、早い話思っていても発信しなきゃいいだけ

身も蓋もないですが、
「否定されないこと」と「苦しまないこと」を混同している節が強いのが個人的なモヤモヤポイントで、
声高々な主張からは、苦しみのない世界を求めているように見えてしまうのです。

それはちょっと思い違いな気はしていて、
もし否定されない社会が確立されて精神的にバリアフリーな環境が出来上がったら、
多分次は否定されないからこそ生まれる苦難に向き合うことになると思うんです。

自分が多様性で許容されるなら、相手のことも受け入れなくてはいけなくて、
価値観の相違に対して経緯や理屈を汲み取り、複合的な観点で折り合いをつけるような、
今とは違う頭の使い方が求められてくるのではないかと思います。
その使命がマジョリティ/マイノリティ関係なく、それこそ〝平等〟に与えられる世界が共生社会に求められる「価値観の多様性」なんではないかな??と考えています。

今以上に生きやすくなるだとか、抱えてきた過去が昇華されるとか、ありのままの自分で生きていける…といった劇的な変革が起きるイメージを私は持てません。
もしかしたら否定されないからこその傷も生まれるかもしれない。

声のデカい主張にはその先を見据えたような内容が掴み取れないないことが多いです。


 もっと言えばマイノリティサイドも許容する側になるというのは、
つまり自分が否定する側になって傷つける立場にもなれるということでもあります。

思想を発信するだけで人を傷つけることができます。マイノリティな側面をお持ちの方にはその覚えがあると思います。
それは自分が持っている思想でも同じで、
より少数でも心を痛める人が必ず現れるもの

自分がかつてやられてきたことを、より少数に対してする図は避けられない
というか、さっきから言ってますが傷のない世界は実現できないんだと思います。
変な話傷を作るからには理解される余地を作らねばならないし、受けた傷の分析も欠かしてはいけない、そういうものというか

 だから自分を殺さず、相手も尊重できるTPOを考え続ける必要があって、
そのためには表題に掲げた「思う分には無罪」は結構キーになるマインドだと思います。

どんなにゴミみたいなこと考えてても言わなきゃいいんです。
私は率直にモノを言うことを我慢できずさまざまな人を怒らせて掴んだことですが、言い留めていた方がかえって精神衛生がいいことはあります。

究極の話配慮にかける前時代的な価値観も、天動説を支持していようとも、アブノーマル思考だろうとも、思うだけを徹底すれば無罪だし、他人が知る術もない
そのぐらいの自由は許されてもいいと思います。
発信が悪になる「時がある」だけだと自分がいる層を見る限り思っています。

だから完璧な抑圧ではないし、強要される状況ともちょっと違う

必ず絶好のタイミングが回ってくるからそれまでは思想を研ぐ時間に充てる…
やることやってさえいれば思想まで殺さなくてもいいんじゃないかな〜って根拠を探す日々です。

貫く姿勢と言い控えることのバランスが(本当に)難しいですが、とにかく固まったスタンスをもつことよりは、ケースバイケースでの柔軟な判断を常に求められる世界なのではないでしょうか?
それは多分楽な世界じゃないと思います。


 他のマイノリティの方々がどういった環境を求めているのか正直掴めていないので、多分この考え方も少数派(そして誰かを否定している)

求めているのがマイノリティであることを気にしなくていい世界なのか、
それともステータスに誇りが持てるような生き方がいいか、それによっても答えは違ってくるでしょう(個人的には前者がいいんですけど)

こういうことを考えるたび、新しい時代や環境を作ることに個人的な報いを期待してはいけないものなんだなとつくづく思います。
あってほしいけど


 本当に「思う分には無罪」を体現するなら究極の話こんなの書いてんじゃねえよって話でもあるし、
先述の通り私は率直にモノを言ってあらゆる人を怒らせているため、自分がこれに準じられているかどうかは
また別の話

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