永遠の真理の種子が、心に根をおろすためには、深く切り込む犁(すき)の刃(は)で、後から後から生じる硬い殻を切り開かれ続けねばならない。

患者さんたちに導かれて、時間だけはそれなりに立ち、経験も増えましたが、

球汚れなく道険し‥

いやいや、これは水島新司の『救道くん』・・、えっと、

少年老い易く、学成り難し、

、です。


昔は、自分の遅読や情報処理能力の乏しさを恨めしく思っていました。

ブルドーザーのように知識を吸収し、実地に取り入れていく知的に有能な精神科医や心理士、福祉医療者たちが、

かならずしも、患者さんたちを救い上げることにばかりにはなっておらず、
かえって、その有能さや知識の誇りがあるが故に
個々の患者さんの現実よりも自身の学や信念の方を優先して、患者さんたちが虐げられている幾多の現実を、ーこれも患者さんたちから教えてもらったことですがー知らされるようになりました。


自分は無能だという引け目を抱えているがゆえに、
患者さんで答え合わせをしようと、患者さんに伺いながらするいまの自分のスタイルも、なにかしら、
あちらこちらで、傷つけられてきた患者さんには、
ほっと一息つける出会いになっているかもしれない、と思うようになってきたのでした。
有能で、なおかつ、謙虚というのがベストです。かなしいことですが、中井久夫先生のような治療者は、なかなか存在しないのでしょう。

患者さんとのかかわりと、自分の治癒 ─ ロジャーズ派の人たちのようにかっこよく言えば“自己一致”になるのかな? ─ は合わせ鏡のようになっているようで、ふとした機会に、自分ってこんなに丈夫だったっけ、と気付くことがあるようになりました(患者さんが治療してくれた)。
思えば、孤独に充足できるようになっているし、将来の不安、過去の後悔が以前とくらべものにならないくらい遠のいているし、
診療においても、生活場面の諸問題、心の動きの読み取りなども無理せずに対応できるようになっているし‥

昔、江原啓之さんが、ひとつの仕事に従事すると、その分や専門の指導霊がつくようになると言ってましたが、そのようなものなのかなとも感じます。

精神科医になりたての頃、不安いっぱいの私を何とか診察室の椅子に座らせてくれたのは、ユングの 
”wounded healer”
という言葉でした。

家族や同僚ばかりか、教育、医療福祉の援助者からも傷を負わされた人たちには、wounded healer で、ほっとできる人たちが少なからず、いえ、かなりの人数いるようです。

 wounded healer というのは、簡単に言い換えると、
”同病相憐れむ”
だと思うのです。


わたしの方こそ、これからも奥村さんからたくさん気付かされたり、教えてられたりしながら、

困ったことがあったときに相談させてもらいながら、仕事を続けさせてもらえたら幸甚です。

ウルトラセブン、動物博士、漫画家、アニメーター、小説家、農業か医療の資格を取っての宣教師とどんどん変わり (;^_^A。

最後は、’普通の(まとものな)人’が目標になりました。

いま、どうして、おまえは普通に生きられないんだ‥と父親がぼそりとつぶやいていたのを思い出しました‥。

親は大変だっただろうなぁ‥。自分の子供が自分みたいだったらと思うとぞっとする・・、(幸いなことに、そうではありません ホッ(-。-;)


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永遠の真理の新しい、実りゆたかな種子が、われわれの心に落ちて、そこに根をおろすことができるには、その前に ’不安’ という鋭い、深く切り込む犁(すき)の刃(は)が、われわれの心のあとからあとから生じる硬い殻を、いくども切り開かねばならない。

このような過程を経ていないと、実際に人生の根底にある本当に真実なものに対して、いつまでも無感覚でいるであろう。 

われわれは多くの人生経験をつむことによって、全く苦難のない生活をもはや願わないという心境に達する。
これが「永遠の平安の状態」である。
この地上では、’苦難’ こそが、われわれの悪い性質からわれわれを守ってくれる我々の変りない番人であり、そのうえ、苦難がなければさらに堪えがたいであろう生活の単調さをも破って、これを活気づけてくれるものである。

カール・ヒルティ『眠られぬ夜のために 第1部』岩波文庫

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