質問1⃣父の右に坐する 質問2⃣

Ⓠ1⃣ キリストは天に上り神の右側に座ったみたいなことが書いてあったのですが、これは所謂神様の存在とは別の存在であるということでしょうか?

 

Ⓐ1⃣ 神は無限で無辺、遍在の存在なので、無辺・遍在の存在に右も左もありません。なのになぜ「右」と表現されているかと言うと、「右」によって右に相応する霊的な意味があるからです。

たとえば、ここでの「父の右に坐する」という表現は「天と地における至高の力をことごとく持つ」という内的な意味になります。このみ言葉の相応については、現行の教会の人たちはほとんど知られていない秘義(アルカナ)になります。

聖書の内、み言葉の書*は、全編、上のような相応(対応とも)**によって書かれています。それがみ言葉の書に貫かれた独自の(いわゆる)‘文法’となります。

 

今回の例(父の右に坐す、右)について、自称小さなヨハネ氏(旧浪々ポントス改め)がそのホームページで、聖書全体から同様の表現を上げて、その後、スエデンボルグの解説箇所を載せてくれていますので、以下に転載します。

 

み言葉の書*‥端的に言えば神の言(ことば)のことだが、スウェーデンボルグはこれを、神的な真理としての神、つまり霊界と地上への神的な啓示だとする。私たちのもとにある神的な啓示は旧・新約聖書であるが、彼は聖書=聖言と考えていない。聖書の内でも純粋な対応に基づいて書かれたものだけが聖言だとされ、それはたとえば新約聖書では、4つの福音書と「黙示録」の五つだけである。旧約聖書ではモーセ五書や預言書などが聖言だが、「ルツ記」や「エステル記」などはたんに有益な宗教的文書とされている。また彼によれば、旧約聖書で言及されている「ヤシャルの書」のように、古代教会に属した聖言も存在したと言う。

 

相応(対応とも)(correspondence)**‥スウェーデンボルグの思想の最も有名な概念の一つ。対応とは、実在の「度」を異にする事物、つまり、神的なものと霊的なものとのあいだの、あるいは霊的なものと自然的なものとのあいだの、 因果的かっ機能的な関係である。たとえば、ある自然界の物体、活動、現象が、ある霊的なものの結果として生起し、これに反応・適合・呼応・類似する時、これらの二つのものは対応すると言われる。私たちが「温かい心」と言う場合、一つの心的過程を、「度」を異にする物理的な熱という言葉で語っている。この例はたんなる比喩や象徴とも考えられるが、スウェーデンボルグの対応の概念は、もっと存在論的な概念であり、比喩や象徴とは区別される。

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マタイ22・44

主はわたしの主にお告げになった。
「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。

  

マタイ26・64
しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。



マルコ14・62

人の子が全能の神の右に座り



マルコ16・19

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。



ルカ22・69

しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。



コロサイ3・1

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。



ロマ書8・34

復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。



ペトロの手紙1・3・22

 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。




2.父の右に座す

  

天界の秘義2083〔2〕

 主は己がもとにあった人間的なものをことごとく御自身の力から神的なものになされ、かくて単に合理的なもののみでなく、内的な感覚部分と外的な感覚部分をも神的なものになされ、それにより身体そのものをも神的なものになされたのである。このようにして主は人間的なものを神的なものに結合されたのである。合理的なもののみでなく、感覚的部分も、引いては身体全体もまた神的なものに、エホバになされたことはすでに示されたところであるが、そのことは以下の事実からたれからも認められることができよう、すなわち、主のみがその身体の方面で死人からよみがえりたもうて、その神的なもののすべての方面でも、またその人間的なもののすべての方面でも、神的な力の右手に坐られておられるのである。神的な力の右手に坐ることは天と地における至高の力をことごとく持つことを意味しているのである。



天界の秘義8281

「ああ、エホバよ、あなたの右手は強さにより讃えられます」(出エジプト記15・6)。

これは主の全能が示されたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、「エホバの右手」の意義は全能であり―そのことについては以下を参照―「強さにより讃えられます」の意義は示されることである、なぜなら神的な力は強さをもって示され、その強さで讃えられるからである。「エホバの右手」が全能を意味していることは、聖言の「手」により力が意味され、かくて「右手」により卓越した力が意味され、従って「手」または「右手」がエホバについて言われるときは、それは神的な力を、または全能を意味するのである。(「手」と「右手」は力を意味していることについては、878,4931~4937、6292,6947,7188、7189,7518番を参照、それがエホバについて述べられているときは、全能を意味することについては、3387、7518、7673、8050、8069、8153番を参照)。



天界の秘義8281[2]

「エホバの右手」は神的な力、または全能を意味していることもまた聖言の以下の記事から明白である―

 イエスは言われた、いまから後あなたらは人の子が力の右手に座って、天の雲にのって来るのを見るでしょう。(マタイ26・64、マルコ14・62)


 いまから後人の子は神の力の右手に座りつつあるでしょう(ルカ22・69)


エホバはわたしの主に言われる、わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右手に座りなさい、あなたはメルキゼデクのさまに従ってとこしえに祭司である、主はあなたの右手におられて怒りの日に王らを打たれた(詩篇110・1,4,5、マタイ22・44)


「右手」は、エホバについて言われているときは、全能を意味していることを知らない者は、主のこれらの言葉から、主はその御父の右手に座り、地上の王の右手に座っている者のように統治されるであろうとしか考えることができない。しかし内意はこれらの記事の中で「右手に座ること」により意味されていることを、すなわち、神の全能を教えており、従ってまた「力の右手に座る」、「神の力の右手に座る」と言われているのである。



天界の秘義8281 [3]

全能を持たれるのは主であることは明らかである、なぜならそれは主について言われ、「ダビデの書」の中の「主」により神的な真理の方面の主が意味されており、また福音書の中の「人の子」によっても意味されているからである、なぜなら神的な真理は神的な善から全能を得ているものであるからである。(神的な真理に全能があることについては、6948,8200番を参照、全般的に力は善から発した真理に属していることについては、3091、3563、4231、6344、6493番を参照、従って「手」は真理について述べられていることについては、3091、4931番を参照し、「人の子」が主から発出している神的真理を意味していることについては、2159、2803、2813、3704番を参照)。



天界の秘義9133

「かれの手の中に」は何であれかれに属したものを意味していることは「手」により力が意味され、何であれ、たれかの力の中に在るものはその者に属しているためである。従って「手」により、とくに右手によりその人間自身が意味されている。この凡てから「父の右手に座ること」が主について言われているとき、それにより意味されていることは、父における凡てのものであり、かくて父御自身であることを認めることができよう―そのことは父の中に、父は主の中に在ることと同じであり、主のものは凡て父のものであり、父のものは凡て主のものであることと同じであり、そのことは主がヨハネ14・8-11、17・10、11に教えられているのである。



天界の秘義9807〔6〕

 同様に他の所にも―


 わたしはあなたらに言います、この後あなたらは人の子が力の右手に坐って、天の雲の中に来るのを見るでしょう(マタイ26・4)。


 これからは人の子は神の力の右手に坐るでしょう(ルカ22・69)。


『人の子』は主から発出する神的な真理〔神の真理〕を意味し、『力の右手に坐ること』は主が全能を持たれることを意味し―なぜなら神的な善〔神の善〕は神的な真理により全能を持つからである―『これから後彼らはそれを見るでしょう』と言われていることは、主が世で諸々の地獄を征服して、その中の、また諸天界の一切のものを再び秩序づけられた後は、神的な真理はその全能の中に在ったのであり〔その全能を得たのであり〕かくて主を信仰と愛との中に受けようと欲する者は救われることが出来ることを意味しているのである(9715番を参照)。(『右手に坐ること』が全能を意味していることについては、3387、4592、4933、7518、8281、9133番を参照、善は真理を通して凡ゆる力を得ることについては、6344、6423、8304、9327、9410、9639、9643番を、神的な力そのものは神的真理であることについては、6948番を、『人の子』即ち、神的な真理が『その中に在って来られる雲』は文字における聖言を意味していることについては、創世記18章序言、4809、5922、8267、9429番を参照されたい)



真のキリスト教136

かくて私(スウェーデンボルグ)は語った。「右手に座することは文字通り右手に座することを意味するのではなく、神が世に取り給うた人間性による神の全能を意味します。神はこの人間性によって始めから終わりまで凡ゆる物の中に在し給います。彼はこれによって地獄に入り、これを破り、これを征服し給いました。彼はこれによって諸天界を秩序ある排列にもたらせ給いました。従って彼はこれによって人間と天使とを贖い、彼らを永久に贖い給いました。もしあなた方が神に聖言を尋ね、照らされることが出来ますならば、あなた方は右手は全能を意味することを理解されるでしょう。例えばイザヤ書には以下のように記されております。

「我が手は地の基を置き、我が右手は諸々の天をのべたり」(48.13)

「神はその右手により、その力ある腕によりて誓い給えり」(62・8)。


「汝の右手の我を支え給はむことを」(詩篇18・35)。

「汝が自らのために強くなし給いし人の子の上におきたまえ」(80・15,17)

これによって以下の言葉が如何に理解されるべきであるかが明らかであります。

「エホバ我が主に語り給えり、我汝の敵を汝の承足とする迄は我が右手に座すべし。主はシオンより汝の力の杖を送り給はむ。汝は汝の敵の最中に在りて統べ治めよ」(110・1,2)。この詩篇の凡ては主の地獄との争闘を、地獄の征服を取り扱っております。神の右手は全能を意味するため、それ故主は自らは力の右手に(マタイ26・64)神の力の右手に(ルカ22・69)座するであろうと語り給うのです。」



3.右手

  

天界の秘義9133

「もしその盗んだものが彼の手の中に見つけられるなら」(出エジプト記22・3) 

これは、回復が行われることの出来る手段となる真理と善の何かが残っているなら、を意味していることは以下から明白である、即ち、「見つけられるなら」の意義は、それが、『盗んだもの』により意味されている、取り去られた善または真理について言われている時は、残っていることであり、『彼の中に』の意義は、彼の力の中に、であり(『手』は力を意味していることについては、878、3387、4931-4937、5327、5328、5544、6947、7011、7188、7189、7518、7673、8050、8153、8281番を参照)

―『彼の手の中に』は、また彼の手に属したものを意味していることは以下に見られるであろう―『盗んだもの』の意義は取り去られた善または真理である(9125番)。このことから『もしその盗んだものが彼の手の中に見つけられるなら』により、善と真理との何かが残っているなら、が意味されていることは明らかである。それはまた、回復が行われることが出来る手段となるものを意味していることは、この節が取り去られた善と真理とを回復することを取り扱っているためである。この間の実情は以下の如くである。善に対する全般的な情愛が残っている限り、取り去られた何か個別的な〔特殊な〕善が回復されることが出来る手段となる何ものかが常に残っているのである、なぜなら個別的な善と真理とは全般的な善に依存しているからである(920、1040、1316、4269、4325、4329、4345、4383、5208、6115、7131番)。


『彼の手の中に』は何であれ彼に属したものを意味していることは「手」により力が意味され、何であれ、たれかの力の中に在るものはその者に属しているためである。従って『手』により、特に『右手』によりその人間自身が意味されている。この凡てから『父の右手に坐ること』が主について言われている時、それにより意味されていることは、父における凡てのものであり、かくて父御自身であることを認めることが出来よう―そのことは父の中に、父は主の中に在ることと同じであり、主のものは凡て父のものであり、父のものは凡て主のものであることと同じであり、そのことは主がヨハネ14・8-11、17・10、11に教えられているのである。



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Ⓠ2⃣ もう一つは復活したキリストが批判的な? 人たちの前に現れて祈りを捧げなさい的なことを言ったみたいな感じでしたがこれは強制しているということにはならないということなのでしょうか?

 


Ⓐ2⃣  「復活したキリストが批判的な? 人たちの前に現れて祈りを捧げなさい的なことを言ったみたいな」箇所がどこなのかはっきりわからなかったのですが、もしかしたら、以下の箇所でしょうか?

 

マルコ16:9~20

〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。
マリヤは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいる所に行って、それを知らせた。 彼らは、イエスが生きておられる事と、彼女に御自身をあらわされた事とを聞いたが、信じなかった。
この後、そのうちのふたりが、いなかの方へ歩いていると、イエスはちがった姿で御自身をあらわ

された。 このふたりも、ほかの人々の所に行って話したが、彼らはその話を信じなかった。
その後、イエスは十一弟子が食卓についているところに現れ、彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった。彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。
そして彼らに言われた、

「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。
弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕



ちょっと質問の「祈りを捧げなさい的な」命令ではないようですが、もしこの箇所だとしたら、改めて上の箇所を読んでもらうとお尋ねの内容が変わるかもしれません。ですが、主が弟子や信徒に「強制する」ということについてのお尋ねということでお答えしてみます。

 

み言葉は、殺すなかれ、姦淫するなかれなどのモーセの十戒から、右の頬を打たれたら左の頬を向けよなどのイエス様の言葉まで、命令として書かれています。それを強制と呼ぶのであれば、強制した言い方と言えます。

それはイエスにどのように生きればよいか教えてほしいと求めに来た弟子や信徒に対しての答えなので、他者に強制するというよりは、神と人との関係について諭すということになります。それはまた、人が幸いになるためにどのように生きればよいか、生活すればよいかを証しする言葉です。


有無を言わさず、~せよ、~しないと地獄に行くぞ、となったら、脅しですし、このニュアンスで「これは強制しているということにはならないということなのでしょうか?」との質問の言葉になったのかな、といま、ふと思ったのですが、どうでしょう。


神の命令は、人間の遺伝子についての啓示です。どのような生き方をすれば、人間に備えられた遺伝子が妨げられずに発現し、その人がその人らしく、自由に、幸せに生きていけるかがその言葉によって啓かれています。

そして、無条件に私を神と信ぜよと言っていません。

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります」(ヨハネ福音書7:17)と、聞いている人たちに、自分の語っていることを聞いて自分で判断するように促しています。


また、次のように言っています。

「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか」(ルカ福音書12:54~57)

と。


これが入り口です。そうして、あなたに従いたいとついてきた人たちに、

「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。」(ルカ福音書12:2)

などと、教えが進んでいきます。


最後までついてきた弟子との最後の晩餐では、

「あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです」(ルカ福音書22:28~30)

と教えます。


そして、晩餐の途中、ユダが一人、敵に売るために晩餐の部屋から出ていった後に、

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ福音書13:34、35)

と新しい戒めを与えます。


このように、主の命令は、その人の受け入れの進み具合に合わせて段階的に変わっていきます。

 

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