父の誕生日。
今日は父の誕生日だ。
生きていれば82歳。
生きていなくても生まれてからは82年経つ。
お父さん。お誕生日おめでとう。
父と妹の誕生日が二週間しか離れておらず、合同で行うことが多かったが、父は、誕生日を祝うとう習慣がなく、だいたい甘いケーキと脂ものが身体に悪いと不機嫌になり、緊張のなか慌ててご飯を食べ、片付ける会になりがちだった。
子どもが喜んで食べるものはだいたい健康にはよくない。
お祝いと御馳走は嬉しいが、ちょっと悲しい思い出だ。ある年妹はとうとう耐えきれず泣いてしまった。
ただ誕生日をお祝いしたいだけなのに、怒鳴りあいの喧嘩になるのは、あまりにも悲しい。
どうにかならなかったものだろうか。
家族とは何だろう。学生の頃に「幸福追求単位」だと文献にあった気がするが、どうにもその逆に向かっているとしか思えない現象がしばしば見受けられる。
各々、思うところの幸せの価値は違う。
父は、健康に長生きをしたかった。若い頃大病をして入院をしたことがあったようで、それ以来、ランニングをしたり自転車でかなり遠方にいったり、登山をしたりと、ストイックだった。
肉は好きだけれど、あまり食べないと頑張っていた。
一方母は、作った料理を食べて欲しい。お野菜ばかりだと嫌がる子どもが美味しいねと食べてくれるものを作りがちなのは当然だ。
自分も好きなのだとおもう。
しかしそれがよく父の逆鱗に触れた。
野菜を食べろと無理くり食べさせられたトラウマからしばらくピーマンを見るだけでえづいてしまっていた。
自分のように病気をして欲しくないから、食習慣を整えて欲しいとの願いだったのだと、大人になってみてようやく解る。
どちらもよくわかる話だが、とにかく話し合わない夫婦だった。
最終的に我慢しきれず、おかしいことになっていく。
思いを言語化していくというのはすごく大切なことだ。それが怒りであればなおのこと、不満や違和感のうちに対処できれば望ましい。
何を価値に思っていて、何をされたら嫌なのか。何が嬉しいのか。自分のことも伝え、相手のことを知ることで、成長し、思いやり、どうしたらよいかを決めていける。
聞いても答えない、急に気にくわないからと文句をいう、というタイプの人と暮らし、
「まず自分のことは言わないとわからない。ましてや他人なのだから」ということを伝え理解してもらうのに時間がかかった。
長年の癖なのだろうが、未だに大きく変わらないため、疲れる。
だから、自分のことを知り、伝えるというのは本当に大切なことだと思う。
違いがあるので私はこうしたい、こうしてほしい。
それについて、できるできない、どこまでなら可能というのを決めていくのが共に暮らすということなのではないだろうか。
世代により、また個人により考えも体質も課題も異なる。
その背景にどれだけ近づいて理解できるかが、平和の鍵かもしれない。
それは個人、まち、国単位でもきっと同じことなのではないだろうかと常々思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?