【1】ずっと真夜中でいいのに。『正しい偽りからの起床』を読む

ずっと真夜中でいいのに。について

ずっと真夜中でいいのに。」とは音楽ユニットの名称である。流動的なメンバー構成に特徴があり、創出される作品はいずれもユニークな魅力を持っている。2018年6月「秒針を噛む」をもって活動を開始。以来、現在までに発表した曲は50を超え、メディアへの露出こそ少ないものの、3つのフルアルバムを作り出すほど精力的な活動を見せている。

 そう長く説明しなくてもここでは十分ですよね。一種のジョークとして公式のページにも記載がある通り、Wikiを参照すれば私の記事よりも具体的に分かります。

私の語ること

 今日までの実績やその意味を語ることは、私の能力の及ぶ範囲を超えるので詳述は避けます。
 それに2024年2月1日時点でのYouTubeの登録者数は250万人に迫り、種々のフェスへの参加や海外公演の決定など、活動の広がりや勢いは誰しも確認できるでしょう。また、ライブツアー「原始五年巡回公演「喫茶・愛のペガサス」」は1月30日で一端の区切りでしたが、2024年5月4日、5日に集大成として「本格中華喫茶・愛のペガサス ~羅武の香辛龍~」を開催するようです。
 直近のニュースを見るだけでも作品に感応する人々は数多く、それは今後も増えていくと言えるでしょう。

本試みの価値のなさ

 ところで、そうした人々の中には著名な作家である綾辻行人氏がおり、とても熱心なファンであることが知られています。実際に、2023年3月4日ABEMAにて放送された番組「What is ZUTOMAYO? -ずっと真夜中でいいのに。とは何なのか?-」に登場しています(2024年1月にYouTubeでアーカイブが上げられている)。その場面、「ずとまよの最大の魅力」として「ミステリアス」な部分に言及していました。これはフロントマンである「ACAね」だけでなく、歌詞についての言葉でもあると思います。しかし、「聞かぬが花ということもありますし」と個別の曲や歌詞の背景を探ることはせず、違った角度からの質問をしていました。
 「ミステリアス」な部分が魅力であるなら、それを紐解いて解釈しようとする試みは無粋と言えるかもしれません。ただ、先ほどの綾辻氏の発言は、無数にいるファンが持たないような固有の影響力、番組という一種の制約のもとにあります。また、これまでにも「解説」や「考察」と題して作品についての意見を述べた記事は腐るほどあり、そうした記事が一つ二つ増えても特に問題はないでしょう。あるいは、作品の価値は作品自体と作品を受け止める人々の間にあるわけで、私が内容にいくら力を入れようと何かがプラスされることはありません。これを別の視点で見れば、本記事の公開によって作品から損なわれるものは何もないように思えます。つまり、私の記事に価値はそんなにないけれど、書かない理由もそんなにないということです。

外側に向けて

 しかし、全く無価値だと考えて書くわけではありません。書きたい理由は(ちょっと)あります。私が抱く問題意識の一つに既存の記事内容の弱さがあります。曲を考察しようというときにどのような問い立てをするか、結論はどこにあるのか。基本姿勢が整った文章を掲載する人は少ないと思っています。「ずっと真夜中でいいのに。」の音楽性、「ACAね」の表現力、MVの物語世界、歌詞、ライブパフォーマンス等。魅力は多面的で重層的なはずが、対象が明確に定まっていないことで内容がぼやけているのです。これらは不可分だと言いたくなる気持ちもわかりますが、記事タイトルはせめて「感想」にしてほしいと思わずにはいられません。
 「自己満足なんだから」「それは批評家の仕事」という意見があるかもしれません。前者には、(多少もやっとする部分はありますが)頷くほかないです。私もそうした記事に全く価値がないとは考えていませんし、それぞれに言語化された魅力は確かなものだと思います。そして当然に、この記事も仕事ではないうえに自己満足のレベルですし。
 ただ、達成の度合いとタグ付けに少しの異議があるということです。
 後者に対して、かなり失礼な自覚はあるもののあえて書くならば、私は批評が行われる媒体に接続する機会が少ないです。私はかなりずとまよの曲を聴き、Spotifyの集計でリスナーのうち上位0.05%程度(正確な記録が見つかりませんでした)だったこともあります。それでいてインタビュー記事が載る雑誌の購入やライブへの参戦はこれまで経験していません。先ほど触れた動画など、オンラインで閲覧可能な一部のコンテンツは積極的に取り入れようとしていますが、それすらも全てをカバーすることはできていません。ですから、価値ある批評や作者本人の意図を見逃している可能性は大いにあります。
 しかしながら、何らかの記事を書いた人やSNSに意見を送信している人が皆、ずとまよの全てを把握しているなんてことはないでしょう。それはもう本人以外には有り得ません。もっと言えば、どのような形であれ世に出て体験される以上、本人すらも「全て」を理解できるはずがないからです。

内側に向けて

 ここまで書いたものとは別に、私にとってはより重要な問題意識があります。私は上記のような穿った目線を持ちながら、自分なりに楽しんでいるポストやコメントをとても羨ましく思っていました。私には「いいね」以上のリアクションを行った経験がないからです。
 中学、高校では友達のうちに同じアーティストを好きな人がいて、共有し考えを深める機会(と言えるほど高尚なやり取りではないにしても)がありました。今となっては私の周りに同じ熱量で語り合える人はおらず、かといってSNS上で交流する場を探そうとも思いませんでした。ましてや、本人に感想を届けたいと考えるのは以前の私には有り得ない発想でした。
 この羨ましさや懐かしさが段々と「言葉にしたい」という思いに定まっていくのを感じます。私は具体的な形にする方法を探し、その結果が「note」でした。
 完成された論の提出や個別に議論を深めることは望んでいません。ただ自分の思うままに書いてみて、展開していく余地があれば広げていける。そういう場だと考えて本記事での試み、「研究」という観点を取り入れて対象テクストを絞り「批評」と「感想」の間を(私なりに)書いてみようと思います。既存記事の弱さを、私自身の壁を乗り越えることが目的になります。


 私の見解はどこまでも私の見解です。認識のレベルでも表現のレベルでも間違いがあるでしょう。より妥当な意見や指摘をもらえれば、傷ついた人がいれば、その他様々な状況が発生すれば、受け止めて謝罪し訂正もします。ただ、私が自分の力量の範囲で真剣に向き合っていることは、誰にも否定できません。

最後に

 私の書く文章はひどく不格好に見えているはずです。
 好きなアーティストについてファンが書くだけなのに感想以上に仕上げたいし、抒情的で傲慢なポエムみたいにはしたくないし、ライターを気取った改行の多い二人称的語りかけはしたくないし、音楽的な素養やポップカルチャーの文脈を知らないために批評と呼べるほどの客観性もないし、研究というほど確立された手法や蓄積も参照せず強度も危ういため「だ・である調」のように格式張って書くことができないし、このようにアンチコメントへの保険も多重に張っておきたいからです。
 私以外に読む人がいなくなるほど、ふるいにかけるための文章だからです。
 ここまで読むような方なら、私の意図するところもはおおよそ想像していたかもしれません。


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