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戸籍時報連載『旧市区町村を訪ねて』6「旅と石川啄木と金田一京助」岩手県盛岡市〜玉山村〜(文・写真:仁科勝介)

こんにちは。コンテンツビジネス推進部のMです。弊社刊行「戸籍時報」との好評連動企画、「旧市区町村を訪ねて」。
いつもたくさんの「スキ」をありがとうございます💛
今回は、10月号掲載の第6回、岩手県の盛岡市から、そこから世に出た偉人たちにまつわる記事を届けてくださいました。
いつものとおり、仁科さんの素敵なお写真をここではカラーでご紹介しています。
今後の連載も、ぜひお楽しみに!

~~本連載の著者は、写真家の仁科勝介さん。2018年3月から2020年1月にかけて、全国1741の市区町村を巡った彼が、2023年4月から再び、愛車のスーパーカブで日本中を旅しています。
 今回の旅のテーマは、1999年に始まった平成の大合併前の旧市区町村を巡ること。いま一つのまちになっているところに、もともとは別の文化や暮らしがあった。いまも残る旧市区町村のよさや面影を探します。
 仁科さんの写真と言葉から、今そこにある暮らしに少し触れてもらえたら嬉しいなと思います。~~

『旅と石川啄木と金田一京助』

 ニューヨーク・タイムズ紙による『2023年に行くべき52カ所』の紹介も記憶にあたらしい,盛岡市。盛岡市先人記念館があるほど傑士の多い街だが,最初に思い浮かんだ偉人は,石川啄木だった。
 
 ただ,ぼくは不勉強なまま旅に出たので,啄木について正確なことはわからないまま,「まずは啄木生誕の地,旧玉山村(現玉山区日戸(ひのと)にある常光寺に行ってみよう。」と思ったのだった。
 
 盛岡市を北に進むと,旧玉山村がある。啄木はこの村の常光寺で生まれ,生後まもなく旧渋民村(1954年に合併で玉山村になった)に移り,18歳まで渋民で過ごしている。
 
 常光寺を訪れると立派な大木がそびえており,木々のざわめきと蝉の鳴き声が響き渡っている。啄木の時代と変わらない音だろうかと想像した。(石川啄木記念館もあったが,改修工事で長期休館していた。)寺の入口に,「石川啄木生誕之地」と刻まれた石碑があった。揮亳した名には『金田一京助』とある。「金田一京助とはどのような人物だろう。」などと言おうものなら,盛岡の方々から厳しく叱責をいただくかもしれないが,恥ずかしながらぼくは彼についてよく知らなかった。
 
 京助は,啄木の4歳年上で,4年間通う盛岡高等小学校(現下橋中学校)時代から親交があった。啄木は浪費家であったとも言われ,踏み倒した借金を背負っていた。啄木の上京後も京助は金銭的援助を惜しまず,啄木を支え続けた。二人の関係性は長く続くように思われたが,そう長くはなかった。京助が30歳のとき,26歳の若さで啄木は夭逝してしまったからである。啄木の死後,京助は大学時代から興味があったアイヌの研究に没頭し,その後,日本を代表するアイヌ語研究の第一人者となったのである。


▲金田一京助の筆で「石川啄木生誕之地」と刻まれた石碑が,常光寺の入口に佇んでいた。

 盛岡市街地も落ち着いた静けさがあるが,旧玉山村は,よりいっそう自然の静寂を表したような場所だった。石川啄木の生誕地で,金田一京助の揮亳に触れ,啄木を通じて,盛岡市で唯一の名誉市民である金田一京助という偉人を新たに知ることができた旅だった。
 
 啄木は渋民のことを恋しく想う歌を歌集『一握の砂』に残している。
 
    かにかくに渋民村は恋しかり
    おもひでの山
    おもひでの川
 
 この地で育んだ二人の功績は互いに色褪せることなく,これからも輝き続けることだろう。旧市町村一周はとても非効率な旅だが,新しく触れられることが,わずかながら増えていく。

(かつお╱Katsusuke Nishina)


仁科勝介(にしなかつすけ)
写真家。1996年岡山県生まれ、広島大学経済学部卒。
2018年3月に市町村一周の旅を始め、
2020年1月に全1741の市町村巡りを達成。
2023年春より旧市町村を周る旅に出る。
HP https://katsusukenishina.com/
X(旧Twitter)/Instagram @katsuo247


本内容は、月刊『戸籍時報』令和5年10月号 vol.844に掲載されたものです。