禍話リライト:忌魅恐【借りたものを返しに行く話】


 一種の、病院の怖い話になる。

 ある会社に勤めていたAさんが急に来なくなった。心配した後輩が上司に訊ねると、彼は深刻な病気で入院しているらしい。会社の健康診断で発覚し、そのまま病院へという運びになったそうだ。
 内臓系の疾患を患ったAさんはわざわざ山奥にある病院で治療を受けていた。上司も詳細はわからないが、どうやら難しい病でそこにしか専門科がないという。余程重篤だったのか、一週間か一ヶ月で終わると思いきや、三ヶ月も休職していた。聞いた周囲の心配は日ごとに募るばかりだ。
 それでもAさんは無事に職場復帰を果たした。皆はお帰りなさいと彼を労った。
「すみません、一回もお見舞いも行けなくて」
「山ん中の凄い偏屈な病院だったから、全然ね。交通手段も悪いし。それこそ一日に二、三回バスが来る来ない、来ないか今日はー、みたいなところだったからさぁ」
「えー、そんなところだったんすか」
 妙なことに全員、患った病名を詳しく覚えていなかった。長ったらしい名前だったことだけは記憶している。
 その日はAさんの体調を考慮し、酒は飲めなくても美味しいものは食べに行こうと退院祝いの席を設けた。胃は問題ないと言ったが、やはり病み上がりの体は受け付けなかったらしく、Aさんが食べた量は少なかった。
 食事会はある程度でおひらきになったが、まだつもる話もある。名残惜しさにかまけてAさんの自宅に集った。一人暮らしではあるものの、家族の人が掃除をしてくれていたようだった。
「あー、なんか久しぶりに落ち着くなー。ほんとはさ、すぐ帰ってきたほうが良かったんだけど」
 見知った我が家にいる安心感に、やっとAさんは人心地がついた。
 彼は元々明るい性格だ。話好きなところも高じ、地元の話題など談話には次第に弾みがつく。気付けば深夜の一時、二時と時計の針は回っていた。だが、明日は仕事も休みだ。全員が構わずにのめり込んでいた。
 途中、なにかの話の拍子で後輩同士が金の貸し借りの話題になった。
「そうだそうだ。今、お前の顔見てて思い出したんだけど、五千円借りてた。返すわ」
「別にいいのに、こんなのいつでも」
 二人の他愛ないやり取りを見ていたAさんが、ふと思い出したように声をあげる。
「しまった、忘れてた。返さなきゃなぁ」
 急にAさんは手元にあった鞄を漁り始めた。
「どうしたんすか?」
「いや、サナトリウムみたいなところに入院することになって。俺は凄い重症ってわけじゃなくて退院できることはわかってたけど、他にはそこに入院するしかない人ばっかなわけよ」
 病室に入った当初は気まずさを感じていたAさんだが、彼の杞憂など余所に、患者たちは優しく接してくれた。人ができていると表現するべきか、ある種の決まった覚悟の形というべきか。
 なかでも特に優しくしてくれた女性がいた。
 初めての入院はAさんが考えていた以上に心細かった。風邪もろくにひかない人間に突如として現れた病変。景色が変わってしまった状況に置かれ、発狂寸前になりそうなほど憂鬱な状況だった。
 見るからに気落ちとしているAさんの様子を見かねたのか、彼女がお守りを渡してきたそうだ。
「これで気を落ち着けたらいいよ」
 もらったものを肌身離さず持っているのは無性に恥ずかしく、かといって好意は無駄にはできない。受け取ったAさんは鞄に突っ込んだままでいた。子どもじみた話だがお守りという存在自体が功を奏したのか、心身ともに随分と落ち着いたらしい。
 Aさんは半分冗談めかして「なんとかなったんだよね」と言っているが、お守りが心の支えになった事実は聞いた全員が理解できた。
「その人はずっと入院してるんですか?」
「ああ、ずっと入院してるんだ」
「それは返さなきゃいけないですね」
「あ、じゃあ明日とか俺、車出すから。いいですよ、全然」
 聞いていた後輩のひとりが、車を出すと名乗りをあげた。ちょうど都合良く、明日は休みだ。Aさんさえ案内してくれれば、乗せていける。
 Aさんは申し出を快く受け取り、翌日の午後に数人でまた集合することになった。


 前日の飲酒を考えて、昼から車に乗り込み病院を目指す。案内されるがままに車を走らせた。高速道路に入り、普段あまり降りないような場所で一般道に戻る。走れば走るほど人里を離れ、電灯もろくにない山奥へと車は進んでいった。
 日が落ちきってしまえば、辺りは文字通りに漆黒の闇に包まれるだろう。Aさんの案内がなければ一生行くことなどなかったに違いない。木も鬱蒼と茂った山中は薄暗く、不安を煽る。国道はあっても落ち葉や枯れ枝が散乱し、人の手で整備されている様子がなかった。
 確かに道すがら看板は見かけていた。しかし、本当にこの先に病院があるのだろうか。
 心配する後輩たちの思いとは裏腹にAさんに案内されるがまま、車は目的地に近い駐車スペースに止まった。昼過ぎには出発したというのに、辿り着いたのは夕方頃だった。
「俺ちょっと行ってくるわ」
 降車したAさんは整っていない獣道のような通路を進み、茂みの向こうへと消えていった。
「あの奥に建物でもあんのかな」
「普通病院だから、山奥っつったって入る道なんて整備されてるもんじゃないのかな」
 車中に残った人間がいぶかしんだところで、自分達が一緒に行くわけにはいかない。Aさん本人が行くなら仕方ないが違和感を拭えない。そんな最中、運転手役はひとりで「おかしいなぁ」と呟いていた。ちらちらと後ろを見やり、同じ呟きを繰り返している。
「いや、病院……だよね。ずっと看板が見えてる○○病院みたいなとこでしょ? さっき通り過ぎてったところを左に入るんだと思うんだよね」
「え、そうなの?」
「俺らちゃんと見てなかった」
「先輩がそもそも○○病院って言ってて、でもまだ真っ直ぐって言うから真っ直ぐ行ったんだけどさ……違うと思うんだよね」
 当時乗っていた車にカーナビは整備されておらず、今更彼らに確かめるすべはない。言い表せぬ状況の逸脱さを感じ、空気が淀んだ。
「変だな……」
「ちょっとさ。ちょっと先輩のあと、付いてってみようか……?」
 Aさんが車を離れてかなり時間が経っている。落ち着かないそわそわとした妙な気持ちに陥り、全員で彼を追うことにした。

「先輩、先輩っ」
「渡せました?」
 呼びながら歩く道は人ひとりは通れるが、好んで使う道ではない。どうしてこんな道をAさんは進んだのか。戸惑いながらも進み続けていくと、急に視界が大きく開けた。
 建物があった。建物だったものが、あった。どう考えても、使われていなかった。
 誰が見ても廃墟だとわかる建物につい最近まで入院できるはずがない。ここが病院だと示す看板もない。元々は立派な二階建ての物件だったのだろう。在りし日の面影はもう失われていた。
 ひとりが近づき、早口でまくし立てた。
「いやいやいや、やっぱり変だよ。薄々俺も目に入ったときからわかってたけど、窓ないじゃん。廃墟じゃん」
 反論する要素がなかった。混乱する寸前の暗闇のなかで、聞き慣れた声がした。
「こんばんはー」
 Aさんの声だった。廃墟の中から聞こえてくる。おそるおそる玄関のドアを開けると、やはりAさんがいた。
「こんばんはー。お邪魔しますよー、いいですか?」
「先輩?」
 中に呼びかけるAさんに思わず声をかけていた。明らかに無人だとわかる建物に何の疑問もなく、しかも近所付き合いのある場所のように入ろうとしていた。振り返った顔は、いたって普通だった。
「お、なんだお前ら付いてきちゃったのか」
「付いてきたのかじゃなくて……先輩?」
「じゃあ、失礼しますねー」
 Aさんは後輩たちの視線など気にも止めず、中に上がった。瞬間、彼の動きが速くなる。最近まで入院していた病人であることを疑う駆け足で、奥へと消えていった。
 迷いなく離れていく背中を、残された側もすぐに慌てて追おうとする。が、できなかった。
 よく見ると床や廊下が朽ち果て、腐り、所々で抜け落ちている。こんなところをあの速度で進むなど、予行演習でもしなければできるはずがない。Aさんはまるで勝手知ったる家を進むように、慣れた様子で穴を素早く避けていったのだ。
 後輩たちも腐食した部分を注意して避けながら進んだ。なんとか追いつくとAさんは廊下に立って、一番奥にある部屋を覗いていた。
「あ、△△さん。これ、お借りしてたお守り。どうも本当にお世話になりました、返すの忘れちゃってて」
 誰と話しているのか。こんな廃墟に誰か住んでいるとでも言うのか。
 辺りは徐々に暗くなってきている。明かりもないこんな場所は闇に包まれるだろう。
 異常さを増していく空気に怯える後輩たちを余所に、Aさんは普通に話していた。しかし一方的に話しているだけで、部屋からは全く返答がない。
「あの本当、別に握り締めてたってわけじゃないんですけどぉ。鞄の中に入れておくとやっぱり、なにかしら力になったというか。本当にありがたいと思って……」
 Aさんの言動も気になるが、一番後方にいた運転手も気になる声をあげた。
「やっぱここ違うぞ。病院じゃないぞ、ほら! あそこあそこ!」
 運転手の示したとおり、全員が窓の外を見た。
 ちょうど抜けてきた藪の向かい側に病院が見える。遠くだがはっきりと明かりもついている。看板もある。誰もが想像する病院の形が、存在していた。
「あっ……病院だ」
「病院あそこじゃん……!」
「じゃあ、こ、ここ……何?」
 得体の知れない恐ろしさに足がすくんだ。湧き上がる理解できない衝動を抑えつけて、まだ話し続けているAさんを呼ぶ。
「先輩!」
「何? 今、話してんだから」
「あの、変な、変なこと訊きますけど……この建物なんですか?」
 部屋から顔をこちらに向けたAさんは普通に答えた。
「ああ。入院して初日にさ、窓から見えたんだよね」
 一瞬、言葉が出なかった。それでも確かめたい一心で絞り出す。
「初日に入院している病院の、窓から見た建物……なんですか……?」
「そうだよ」
 ならば、ここは病院でもなければ、Aさんが話しているらしい相手も入院患者ではない。後輩からの指摘を受けて、Aさんはまた部屋へと向き直った。
「そうかぁ……えーっと、じゃあ……」
 彼の横顔が柔らかくなる。
「いいとこのお嬢さんなんだぁ」
 自然に納得した言い方があまりにもおぞましかった。
 何を言っているのか。今すぐにでも逃げ出したいのに、恐怖のあまり足が固まって動かない。
 未だ怯える彼らの様子が見えていないのか、Aさんは得体の知れない何かに軽く謝るだけだ。謝罪もそこそこに、鞄から何かを取り出している。本来の目的のとおり、お守りを返そうとしていた。
 後輩たちはお守りがどういったものか知らない。運転手が持ってきていた懐中電灯を借りた先頭は、怖いながらも興味を引かれてAさんの手元を照らした。
 目で確認した先頭が短く呻いた。遠目から見たそれは、黒く固まったティッシュのようなものだった。指と似た大きさの物を包んだ物体だった。乾いて凝固した黒い塊はお守りという単語と結びつかない。
 先頭の視界に映るAさんはお守りと言い張る塊を携えて、部屋へと入ってしまった。
「入ってっちゃった」
「なになになになに」
「お、俺には指っぽく見えたけどな。黒かったぞ」
「いやもう黒いって言うか、あれ血だろ」
「やめろよ、お前そういうの」
「入ってっちゃったけど、どうするよ……!」
 残される側が騒ぎ立てる小声だけが朽ちた廊下に転がった。対照的に部屋からは何も聞こえず、しんと静まりかえっている。この廊下を歩いてくるときですら、今にも足下が崩れそうな不協和音がいくつも生まれていた。普通ならきしむ足音が聞こえてきてもいいはずだ。
 だが、自分たちが黙ってしまえば無音が辺りを征服してしまう。無音が作り出す沈黙に耐えきれなくなり、緊張と不安がより恐怖に混ぜ込まれていった。
 どうすればいいのかわからなくなる。どうしよう。どうしよう。
 行き場のない感情が頂点に達した瞬間、Aさんが部屋から出てきた。ほっとしたのもつかの間、Aさんは無邪気な喜びを込めて叫び、彼らに向かって走ってきた。

「くれるんだってぇぇぇえ!」

 廊下どころか、朽ちた建物全体に響き渡る声。理由もわかりたくない、底無しの嬉しさに満ち満ちていた。

「うわぁぁああああ!!」
 後輩たちは死に物狂いで逃げ、車へと戻った。言葉にせずともAさんを乗せる気は誰も持っていなかった。
 速度を出して山を下り、高速道路まで戻ってくるとやっと我に返る。さすがに放置しては駄目だと冷静な意見が出た。
「どうする……? あそこ帰れねぇだろ、絶対」
「帰れないっつったって……なんかもう、あっちの人みたいなもんじゃないっすか」
 あっちの人。
 ひとりが言った妙にしっくりと当てはまる言い方に、車内の空気はより一層重くなる。他に当てはまる表現はない。茶化すことも、言い返すこともできなかった。
 結局、恐怖のあまり誰もAさんを迎えに行けなかった。
 翌日の会社で何か問題になるかと彼らは思ったが連絡はなく、Aさんは一切顔も見せずに退職してしまった。


 この話が調査された当時では、Aさんは亡くなってはいないという。
 例の廃墟は過去に金持ちが別荘として建てたらしい。だが別荘という名義ならば国道の通る、もっと立地のいい場所があったはずだ。
 獣道しか無い、山奥の建物。
 それは最初から、誰かを飼い殺すために用意されたのではないだろうか。



(終)




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この文章はツイキャスで毎週配信されている、怖い話が聞ける『禍話』の禍話X 第六夜×忌魅恐(2020/11/28)にて約1:04:36から語られたものを書き手なりに編集および再構築、表現を加えて文章化したものです。

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