禍話リライト:エレベーターの花


 エレベーターは、よくない。


 恋人同士ながら同棲まで踏み切らずにいた男女がいた。お互い気ままに独身を謳歌して、それぞれの部屋に行き来する距離感を測って詰めているような間柄だった。

 このご時世、珍しいことに彼氏よりも彼女のほうが少し古びたマンションに住んでいた。セキュリティーも甘く、入り口はオートロックではない。昔から住んでいる住民にも問題がないとも言えない。だが元来の悪さが新規の人間を排除しているらしく、逆に治安がよいとも言える変わった土地柄だった。
 マンションは古いなりにもエレベーターが稼働していた。きちんと点検されているのだが経年変化のせいか、速度が遅い。

 一度、遊びに来た彼はエレベーターのカゴを上下させる内部で奇妙なものを見ていた。一階のエントランスでカゴのない内部を観察できる程度には下降を待つなか、彼は内側の奥に花が置かれているのを発見した。動作に邪魔にならないよう置かれているが、どう考えても不自然だ。置くという行為自体に無理があり危険もある。住民が悪戯できる場所でもない。
 隙間に到底落ちたとは言い訳ができず、置かれているというしかない。一回見かけただけのものだが「気持ち悪いな」と感じた彼は「まさかエレベーターで人が死んでるんじゃないか」とも思い、住民である彼女に尋ねた。

「えっ……? 私が来てからは死んでないと思うけどな」
「あ、そう……」

 確かに彼女は建築当初からの住人ではない。どこか腑に落ちず悪寒は拭えなくとも、彼はそれ以上の言及をしなかった。

 別の日。雨がシャワーのように絶え間なく降るような土砂降りの、悪天候の夜だった。
 彼は用事のために彼女の部屋に行くと連絡してマンションへと向かった。夜の十時や十一時でも人通りのある普段と違い、この天気のせいか周囲は静かだった。エントランスに入ると雨の音の響きが嘘のように静まっていた。こんな日にどうしてきたのかと後悔するほどに陰鬱とした雰囲気に包まれている。雨水を吸って湿気た壁。人の行き来でびしょ濡れになった床。最悪だなと毒づきながらエレベーターのボタンを押すと、カゴが上からが降りてくる。

 ――そういえば前に花が置いてあったな。

 到着を待つ間、彼は何気なく以前に見掛けた花のことを思い出した。今は天候のせいもあり輪をかけて中は暗く、花の置いてあった場所は奥にあり目視しにくい。それでもあの辺りだったと彼は見つめる。

 その壁に人の顔があった。

 初めは落書きだと思った。
 開けられないドア奥の正面の壁に落書きがされている。ありえない場所の落書きだと見ていたが、エレベーターが降りてくるうちに段々と人の顔そのものに見えてきた。性別もわかる。間違いなく女性だ。
 女性が何かの手違いでそこにいる。あり得るはずがないとわかっていても、エレベーターが降りてくるのを彼に心配させて焦らせるに十分な存在感があった。
 すると女性の目だけが動き、ぎょろりとエレベーターを見上げた。彼が潰されるなどと戸惑っているうちに何事もなくカゴは降りきり、女性はすっと消え去っていた。
 気持ち悪い。乗りたくない。彼は思ったが、これに乗らなければ彼女の部屋には向かえない。しょうがなく乗り、彼女と会ってもエレベーターで見たものについては話さなかった。むやみに住人を怖がらせてはいけないと考えたのだ。

 夜も更けて彼は泊まることになった。寝入っている途中、喉の渇きを感じて目を覚ました。勝手知ったる家でわざわざ家主を起こすこともない。水を飲もうと彼はキッチンへと移動した。
 ふと、キッチンの後ろにあるトイレのドアが僅かに開いていることに気付いた。閉めた覚えがあっても隙間でしかない。いちいち確認もしない場所だ。ちょっと開いたのかなと不自然に思いながらも彼は水を飲み始める。飲み終わってコップを置くと、視界の端でトイレのドアが全開になっていた。
 ドアが馬鹿になったわけじゃないだろう。確かめるべく振りむけば、トイレの中に見知らぬ男性がひとり佇んでいた。ジャージを着た『おっさん』と呼べそうな年齢の人物だった。

「大事なことを訊きますけど」

 突然、おっさんが話しかけてきた。彼は怯み、身を強張らせる。
 こんな夜中のトイレにいきなり現れた第三者への反応は「なんだお前は!」と怒鳴るか「助けて」と怖がるか。あるいは通報するという手もあり、相手に対する拒みの姿勢が正しいはずだ。
 だが、彼の口から飛び出したのはそのどれでもなかった。

「表情はわかりませんでした!」

(え、何言ってんの俺。は?)

 自分の言葉に耳を疑うなかでおっさんは「そうですか」と答えた。
 彼は自ら返事をした後で、何を目の前の相手に返したのかを考えて「まさか」と思い至った。

(……エレベーターで見た顔の話かな? 訊かれたから返したの……かな?)

 クイズの問いの途中で即答した解答者のようにしばし呆けてしまう。さあっと血の気が引いて怖くなり、頭を整理しようと彼は寝室へと引き返した。
 急に灯った電灯に彼女が起きると、起き抜けにトイレに変なおっさんがいたと説明した。

「ええええ!? 何でアンタ冷静なのよ!?」

 驚いた彼女とトイレを確かめに行ったが、誰もいなかった。
 寝ぼけていたのだと彼は彼女から言われた。しかし水を飲んだあとで見たのだから、彼の意識ははっきりしている。結局のところ正体は未だにわからないという。


 怖くなった彼はエレベーターで見たものも含めて説明すると、彼女もすっかりマンションが怖くなってしまった。今すぐ引き払おうにも契約の関係上できず、幸か不幸か家賃は安い。
 彼女は自分の家に戻らず、今は彼の家にずっと泊まり込んでいる。


(終)

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この文章はツイキャスで毎週配信されている、怖い話が聞ける『禍話』のTHE 禍話 第26夜(2020/01/18)にて約7:32から語られたものを書き手なりに編集および再構築、表現を加えて文章化したものです。

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