禍話リライト:溝の老人

 酒好きの男が体験した話。


 その夜は下戸の友人との酒の席だった。羽目を外して飲み過ぎるわけにも行かず、珍しくも当人としては限りなく素面に近い酔いで帰路に付いた。
 一旦家に荷物でも置いてコンビニでも行って、飲み直すか。酒好きの見本のようなことを考えながら、男は自宅までの道を歩いていた。いま彼が歩いている、住んでいるアパートに通じる道路は夜の9時以降にもなると極端に人が減る。今夜も歩いているのは男ぐらいなものだった。
 だが、そんな道に人影がいた。見かけたことのない初老の、いかにも紳士といえる服装をした老人だった。老人は道路に膝を付いて暗がりのなか、側溝を覗き込んでいる。どうやら明かりを持っていないらしく、心底困っている様子だった。
「どうしたんですか、おじいさん」
「鍵束みたいなのを、ちょっと落としちゃって」
 鍵やキーホルダーではなく、鍵束という言い方に引っかかった。もしかしたら車や家の鍵をひとまとめにしていたのかもしれない。
「そうですか」
「暗くて全然見えない……明かりとか持ってない? 携帯とか明かり付いてるらしいけど……私、実は持ってないんだ」
「あ、そうなんですね。じゃあ全然、全然。ここちょっと溝深いですからね」
 老人が覗き込んでいた溝は、幼稚園児ぐらいが落ちたら全身がすっぽりと収まるほどの深さがある。男は老人に代わって、明かりを片手に側溝を覗き込んだ。
 ーーあれ?
 男は小首を傾げた。雨が降ったわけでもないのに、大量の泥のようなものが底に滞留している。明かりもないのにこの中を見るのは危険だった。
「ちょっとこれ見にくいっすね。これ、危ない……上半身潜らせますから」
「すいませんねぇ」
 老人に退いてもらい身を屈めた瞬間、何故か男は自分が酔っているのではないかと錯覚した。確かに飲酒はしたが、普段よりも随分と薄いアルコールだった。それでも自身の泥酔を疑ってしまった。
 上半身を突っ込んで見た溜まった泥や土の塊だと思っていたものが、細長い生き物の群に見えたのだ。
 言ってみれば鰻や蛇のようなものだが、全く違うものだった。例えとして思いつくなかで一番似ているだろうが、別のものが群を成している。
 とにかく黒く細長く、にゅるにゅると蠢く、動いているから生き物とは呼べるもの。だが、明かりで照らした範囲では頭も尻尾もわからないものが何匹も重なりあい、底で模様を作るようにひしめき合っている。
 あまりの気持ち悪さに、男は思わず側溝から勢いよく体を出した。
「ええっ……!?」
「どうしました?」
「いや、あのー……ごめんなさい。すげー細長い、なんか鰻みたいなのがうわーっていて、ちょっと見えないですね」
 戸惑いながら発したのは説明にも言い訳にもなっていない言い分だ。男自身、非難や落胆は承知の上だった。ところが老人は拍子抜けするほどにあっさりと彼を信じた。
「じゃあ仕方ないですね。諦めます」
 鍵束を落として困っていただろう相手は返事を待たず、もう興味もないのか、すたすたと道を歩いていく。外見では考えられないほどに歩みは異常に速かった。
 諦めの良さと若者並みの速度に男が困惑している間に、老人は奥の角を曲がっていった。曲がった先には駐車場がある。草がまばらに生えた空き地を利用している、コンクリートも打っていない殺風景な場所だった。
 異様なものと人を見てしまった気持ち悪さに、男も早足で家に帰った。帰宅した途端、急な寒気が全身を襲った。シャワーを浴びても寒気は酷くなる一方で、ついには発熱もしてきた。
 結局そのまま熱は引かず、翌日の仕事は休むしかなかった。病院に行ったついでに側溝を確認しても、夜に見た奇妙な生物は影も形もない。

「あれはだから、ひっかけられたんじゃないかな。やべーのに。だから……罠なんじゃないかなぁ」


 溝は不用意に覗くものではない。


(終)



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この文章はツイキャスで毎週配信されている、怖い話が聞ける『禍話』のTHE 禍話 第26夜(2020/01/18)にて約15:42から語られたものを書き手なりに編集および再構築、表現を加えて文章化したものです。


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