【小説】遠のき(たぶん3000字)

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  遠のき(横書きテキスト)

 渡された海図には蜃気楼ばかりが書き込んであり、矯めつ眇めつしても行くべき場所が分からない。とんだデタラメを掴まされたものだと吐き捨てるものの、どうしてか表情は浮かれている。行きたい場所があるのではなく、辿りついた場所に居つくだけのこと。

 見世物の前説として不踏島(ふとうとう)のことをすこし。どうしてか距離と時の法則を軽んじがちな貝楼諸島において、不踏島の偏屈ぶりは群を抜く。島は貝楼諸島じゅうのあらゆる位置から視認できるという矛盾した佇まいでおり、近い島から眺めても遠い島から目を凝らしても、広さ高さが変わることはない。慣れない旅人は視界にちらつき続ける不踏島をまえに、不治の飛蚊症に犯されたかのように錯覚するのだが、したたかな現地民は不踏島を無きものとして扱っている。理の外側にあるものを相手取る必要はない。近づけもせず遠ざかりもしない島などそもそも存在しない。

 それでは不踏島にまつわる断片をいくつか。何人も近づけぬという意志が天候までも従えたのか、不踏島は常に霧にまかれている。波間にごろりと横たわった島影は、強いて例えれば遠巻きに眺める工業地帯といった風情ではあるのだが、なにせ深い靄に包まれて細部は灰色に塗りつぶされおり、島自体が靄であるようにしか見えないといったほうが正しかった。気まぐれに霧の晴れた日には全容を見晴るかすことも能うが、碧に透いた海原のきらめきにさらさら馴染む気のない岩肌が、赫々と晒されるばかり。荒く断ち割った大木のようにささくれた崖は峻嶮で、とりつく場所もないように思え、じじつ不踏島への上陸を試みるものは少なかった。とある夜とある島の小港で酒宴が催され、聞し召してご機嫌のひとりが不踏の島への上陸を試みた。舫われていた木船に乗りこむと、酔った勢いをそのままに、単身で海原へと漕ぎ出した。更けきらない貝楼の明るい夜、海面へと近づくにつれ淡い蒼から昏い蒼へ深まっていく空の色。祝福めいたきらめきを放つ星々に照らされて静々と進む木船を喝采をもって送り出した一団が、しかして息をのんだのは島と島の狭間でのこと、停電でもあったかのように一斉に空の星が失せ、ピアノのすべての鍵盤をいちどきに押し込んだような不協和音が鳴り渡った。島の石柱の表面に蕁麻疹のような赤い光がばらばらと灯るや、木船は見えない手で回されたような人工的な挙動で舳先を戻した。不協和音が遠のくなか、差し戻された船には、これはもう予想のつくとおり誰も乗っていなかったわけだが、乗っていた男はといえばぴんぴんと無事であった。なぜか貝楼本島に飛ばされていた男と、男を探しもしなかった酒宴の主催とは、数か月後にうっかりと貝楼本島の路上で出会うのだが、向こう見ずだった男は糊の効いたスーツを着込んで浄水器の路上販売を行っており、前向きで建設的な生きざまについての気づきを語りに語って数時間、やはりあのとき何かに近づいて何かから遠のいてしまったのだろう。

ある少年が手紙を括りつけた伝書鳩を飛ばしたが、その鳩はうかうかと不踏島の上空へと突き進んでしまう。泡が弾けたように鳩はふっつりと消え失せ、目的地へ辿りつくことも帰巣することも遂になかった。少年が思いがけない邂逅を鳩と果たしたのはそれから数年もあとのこと。父の付き添いで朝釣りに赴いたその帰りがけ、ふと小舟の縁から海面を覗くと、鳩の平面図がみなもに刻印されたように浮いている。翼を広げたまま静止した鳩は化石のようにも地上絵のようにも見え、いずれにせよ立体を失った完全平面としてそこに揺蕩っている。柄杓を差し入れると灰色の図柄に飛沫が立ったが、掬われた水は黒々とした海水でしかなく、鳩はいっさい崩れていない。よくよく見れば鳩の周りには文字にしかみえない小さな粒が浮き沈みしているのだった。

 不踏島には列車の着かない駅舎があると言い出したのはシラウドという男だったが、彼は確か昨日まで、この島に存在しない人物だった。それが何食わぬ顔であらゆる家の朝餉に相伴し、たまねぎのスープを啜りながら駅舎について訥々と語るものだから、不思議にこの男と何年も暮らしているような気がしてくるのだった。ところでシラウドの繰言はまことになって、不踏島のほうを見てみれば喫水線すれすれに浜辺があり、三角屋根のこじんまりとした駅舎が建っていた。とりどりの野花がぐるりに咲き乱れ、壁を明るく彩る白いペンキは人の目を意識して塗られたよう。わざとらしく模型じみた眺めだった。さらによくよく目を凝らせば白砂の浜辺には三人の少女、駅員の制帽と制服とを見に纏い、波打ち際に細い素足を投げ出してどうやら喧しく語らっている模様。海岸を庭のように欲しい侭とした彼女たちは歩き始めることもなく語らい続け、駅舎から吐きだされた線路は草叢と砂浜を割って潔く海へ呑まれる。

 稀に訪れる旅客について。〈不踏島〉から幽かな汽笛が聞こえたら、〈見張り番〉は宿に連絡を入れる手はずになっている。〈宿〉の〈使用人〉たちはどいつもこいつも眠りが深く、たっぷり三十二コールしないと電話には出てくれない。その合間にも老若男女のさんざめきは波間を渡って島にあがっており、幾つもの足音が白い砂を軋らせて行進し、受話器を肩に挟んだ〈見張り番〉の背後を話し声が吹き抜けてゆく。スーツケースの車輪が小石を弾き、ドアベルは二度三度と打ち鳴らされる。宿帳のうえを万年筆が走り、カウンターの窪みにペン先が引っ掛かっての舌打ち、そうしたチェックインが終わったころに〈使用人〉と〈見張り番〉の通話が始まる。音だけが蟠るフロントで、絡まった電話線をほぐしながら使用人は、
「どうしてもっと早く起こしてくれないの」
 との弁。

 こうした断章をフウシオは手帳に書きつけていた。手帳と言っても藁半紙をホチキスで無理矢理にとめた粗末な代物で、ごわごわに膨らんだものをジーンズの尻ポケットに押し込んでは、見知らぬ旅客が顕れるたびフウシオはそのもとへ走る。使用人だまりのフウシオの自室には手製の海図が画鋲で止まっていて、同室のヤッケはきっとフウシオはどこかに行ってしまうのだろうと思っていた。なにせフウシオが不踏島の逸話を語るとき、そしてまだ見ぬ貝楼諸島の島々について語るとき、その口ぶりは無限の広がりと深い憧憬とを溢れさせていたのだから。しかし予想に反してフウシオは何年たっても〈不踏島〉へ漕ぎ出す気配もないので、しびれを切らしたヤッケのほうからフウシオに訊ねた。
「そろそろ〈不踏島〉へ行かないのかい。準備は出来ているように思うけど」
 フウシオは首を捻ってヤッケを見つめる。
「馬鹿なことを今さらに聞くね。行かないから近づける場所もあるということだよ」
そういえば初めてしげしげと見たフウシオの瞳はとろりと眠気を讃えており、彼が半睡のまま此処と不踏島とを行き来しているのだとヤッケは得心する。海図に刻まれた無数の絵図。荒唐無稽にして千差万別の夢物語を蒐集し、フウシオのなかの不踏島は育っていく。足を踏み入れないことで近づける夢もあるというもの。みな夢うつつの端境で行きつ戻りつを繰り返しているだけのこと。この断章はひとまず終わりをみるが、ゆめまぼろしは旅客が筆を執り語るたび増していき、これよりもこれからも貝楼諸島のものがたり。
〈了〉

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