ブンゲイファイトクラブ3感想(随時更新)

グループA
竹田信弥「幸せな郵便局」は出色。登場人物のバックボーンをじんわりと描きだす手つき。軸となる人物のスイッチもこれ以上ないタイミング。「山田の涙の理由が自分なんじゃないかと考えていた」を挿入するタイミングもまた、これ以上ない。これは理屈ではない部分かなと思う。そういう理屈ではない不思議な「良さ」が、いちばん多かった、不思議な作品。かなりセンスで押して来ている気がする。
鞍馬アリス「成長する起案」は堂々としたもの。「伝承の域」「起案を使って消息を伝える」といった言い回しや着想に、えぐみのないユーモアがあって好感触。このまま雑誌に載ったっていいくらいのソツのない完成度だ。
夜久野深作「夏の甲子園の永い一日」はグループAのなかでは最も奇妙。まず、人称代名詞の立ち位置が分からなかった。「私に自分の指をいつもしゃぶらせていた年の離れた姉」の意味を私は一瞬でとれなかったし、他にも入り乱れる「若者」「父」「母」「恋人たち」みな、誰にとってのそれなのか分からない。たぶん意識的に行われている操作だ。「甲子園」にとらわれた存在を特定しないようにしている。
 甲子園の試合日程は終戦記念日に重なるため、必ず黙祷を捧げるそう。犠打(特攻)とオツトメ、黙祷、サイレンといった要素は確かに戦争をにおわせる。球児たちもサイレン(警報)と共に居なくなってしまう。そういえばチームメイトたちの末期も、どこか終戦直後を思わせる。そういう読みのまま進むと、荒廃の果てに生き残った人々だけが、失われた遊戯である「野球」を復活させる希望あるラストにも読めるのだが、つぎに復活させようとする「サイレン」は警報にも似たもの。荒廃と停滞と、歴史の繰り返し。読みが多様に開かれ、一筋縄ではいかない作品だった。
宮月中「花」は無駄のない一作。可読性は高く、仄めかしも分かりやすいところから意味を込めたところまで万遍ない。理想的な六枚作品。「自分用ですか?」に痺れた。少なくとも語り手にとっては本当に自分用なのかなと。あまり花言葉とか好きではないのですが竜胆は「勝利」「正義感」「あなたの悲しみに寄り添う」「寂しい愛情」だとか。勘弁して頂きたいですね
。選考時、オール5点作品が1つあったそうですが、本作は個人的な候補その1です。
星野いのり「連絡帳」は俳句連作。しかも児童の目線から句作する。最初はマジモンのこどもっぽさが続くので読み流しそうにもなり、「大人が作っている」ことを勘案して読むというハイコンテクストな評価が要求される。転換点は「からっぽで暗い教室運動会」だろうか。にわかに漢字の量が増え、たぶんなにか辛いことも起きていて(「寒い日のみんなの食べ残しが重い」「ほんとうのオオカミをかく自由帳」)、それまでにない情動をもった句も生まれる(「雪ぎゅっとにぎれば熱くぬれるんだ」)。こどもっぽさが、一年で成長をみていく。
 子供の目線をトレースするだけではなく、「微妙な成長」をトレースするという一段高い狙いが見えるに至って、技術的達成が予想を超えた地点に入ったことが分かる。なかなかできないことだと思う。
「矢」金子玲介はとにかく笑える。数日前の初読のおりには、もう少し余裕をもって語ってもよい内容ではないかと考えもしたが、再読してみると、圧縮によるあわただしさが焦燥感に繋がっていて、その場に立ち会っているような臨場感。文体が時間を操作している! この語り方しかない! やはり見事な一作だった。あと、大家が寝ているのが本当にいい。

 このグループは星野いのり「連絡帳」を推す。もう1戦、どう戦うか、何をするのか、見てみたい。

グループB
・藤田雅矢「金継ぎ」、どこか懐かしい手触りのある奇想SF。月の点検というモチーフがもたらすノスタルジックな味わいが柔らかな読後感を担保している。電車にも似た点検プロセスの、曰く言い難いおかしみも好ましい。語り手の内面をもちだすタイミングもいい場所で、全体の運びによどみがない。手つきがあまりにもスムーズなので、グループAの「成長する起案」ともども、もうNOVAとか載っちゃえばいいじゃん!!!と思った。完成されすぎている。私は狂いを渇望しはじめている。承前の、オール5点と睨んだ作品のひとつ。
・坂崎かおる「5年ランドリー」は解釈との闘い。私は世界史が全然ダメなのである。グループAで輝いている宮月中氏の指摘によれば、ノヴォシビルスクは「五か年計画」という産業政策で成長をみた土地との由。5年という時の重みが、これ以上なく効いた仕込みだ。
 人間模様をてきぱきと畳み込んで余韻もある文章は流石としか言いようがない。あやまたぬ要素の選択が良い短文を生み出す。適切な点景によって表現された時間経過。変わりゆく人々の背景が想起される。洗濯機でがんがんと回る洗濯物の細部は伺い知れない。めまぐるしく回る歴史を、いちど「止めない」選択をしたものは、蓋を開けずに「見ている」ことしかできない。ひょっとしたらどこかで止められたのだろうか。乱暴に蓋を開けて洗濯物を抱え込むこともできたのだろうか。けれども、「見ているだけだ」。うねりに押し流され、ふと時が経ち、見て「いた」だけであることにも気づいたりする。失くしたことに気づくのは、失くしたり無くなってからだ。
 ……選択と洗濯?(なにその結論)
 そういうわけで、おそろしく負荷がかかったが読みがいのある一作。もっとも好き嫌いは分かれると思う。
・松井友里「第三十二回わんわんフェスティバル」はギャグ。たいへん好きなテイストの作品で、素直にけらけら笑って読んだ。
 いびつな犬の着ぐるみを評するワードセンスは素晴らしいし、「本部」と受付係の外観についての淀みない説明にブンゲイらしい描写力が主張されてもいる。「いろいろできるぞ」という作者の目配せを感じる。この文章力とくすぐりとの塩梅だと「ユーモア」の範疇に入れるのだろうと思う。もっと俗に流れたり描写が緩めば、ギャグやらドタバタになるわけだ。(なので、冒頭でギャグと言い切ったが、ユーモアと言ったほうがよいなと思った。このカッコ内は後から追記している)
 BFC3のなかで、読んだあと悔しかった作品のひとつ。いちおう私も小説で人を笑かそうとしている。不遜なラッパを吹いてしまうと、頑張ればこれは書けたかもしれないと思った。でも書けなかった。文芸性を担保する観察の弱さ(技術面での不足)、致命的な勝負弱さ。ああ、私もBFCで人を笑かしたかった。悔しい。
薫「小さなリュック」等身大の文章が、この場ではかえって新鮮にうつる。「黄色のテープが店内に貼られていて、警察の制服を着た人たちが店の中にいて」。「DVDとか」「うつ病だか」こういう解像度と、リズム。
 休憩室のシーンからは、うぐっ、と息の詰まる言葉の連続だ。けれども文体は平明、いたずらに読み手への追い込みをかけない。語り手は距離を取ったまま、けれども一人の少女の「死」に伴走している。「ビルから飛び降りるなんて、まともな人間のすることじゃない」を二度重ねる胆力と、その物凄い効果に、私はめちゃくちゃに感心した。
 良い小説を読んだ。
・さばみそに「沼にはまった」奇想の多い年だ。沼を通してのテレポーテーションの発想が楽しい。文章傾向は「わんわんフェスティバル」と似ていて、実直な観察が奇想を下支えしている。すごく飛躍したことを言うのだが、なんかこんな感じで本気じゃないのに急に死んじゃうことあるんだろうなあと思った。作中では、この現象は命に関わることではないらしい。そういう位置づけだからこそ、柔らかい足掻きとさっぱりした諦観という独特の読み味が備わる。
川合大祐「フー 川柳一一一句」は川柳連作。言語表現の未来を見るために、本作に賭けたほうがいいなと思った。背後の広がりを想像させるテクニックは意義深いが、ごろりと提示された単語と単語の接続によるおかしみを味わう、そんなような楽しみ方もあってよい。想像を誘う短文も、想像を拒む短文も、この連作には含まれている。一個一個が「圧」だ。百十一の物語であり、百十一のただの文章であり、百十一の笑いであり。圧倒的な多義性がひらかれている。

このグループは「フー 川柳一一一句」を推す。「小さなリュック」と迷ったが、「フー」が有する広がりをとった。もっとも広大な六枚である。

グループC
・首都大学留一「超
娘ルリリン しゃららーんハアトハアト」は超娘。
 ステキステッキという文脈から想起されるのは「クリィミーマミ」なんかの魔法少女モノなのだが、ここからがすごい。何するかって布団を畳む。これはすごい。敷布団だし除湿マットだし団地なのだ。「襖」の一語も凄い。襖を閉めたために襖が見えたので、襖って言うのである。
 で、前半はアニメ的シチュエーションへの裏切りから始まり、アニメ的な嘘(歩幅のでかさ、カートゥーン的な立ち止まり方)の愉快な文章化も交えて突き進む。靴底の焼ける匂いに着目している点が非凡である只ならない。そしてルリリンが振り返る。印象的に何度も振り返るアニメやドラマでよくある演出。それを文章でそのままやるとコピーアンドペーストが用いられる。繰り返しによるグルーブ。そして「私」は引き込まれる。ルリリンの魔法的な何かだ!!!!!! 時が目まぐるしく行き来する、昼夜・明暗!!!!! そのスピードを昼・夜という語のインサートで表現してみせる。注意深く保たれたリズム感。損なわれない可読性。
 小説は時間を操作する。内面に潜り込んで一瞬の心理を掘り下げるかたちで時を延ばし、省略した記述によってたちどころに時間を吹き飛ばす。ルリリンがやっていることはもう少し高次で、語の配置および文章のグルーブによって「速度」そのものを作り出し自在に操作している。絡んだビデオテープの映像のような時のガタつきと、早送り再生。なにをどうしたらこんなこと思いつくのか。高いテンションを保ったままの幕切れも鮮やか。
 私、大はしゃぎである。優勝して欲しい。
コマツ「中庭の女たち」もリフレインが印象的。
 まず書き出しが強い。水面を覗き込んでからのテンポが素晴らしい。どんどん広がったイメージが、しかし彫刻に収束して元の地点へと戻る。そして前半に描かれた世界を、さらに覗き込む後半。この構造が美しい。幻想世界的な中庭・泉から現実の博物館へと、どんどん舞台は拡大し、しかしまた中庭の女たちへ収束していく。読み手を裏切る行き戻り。鮮やかだ。これも本当に素晴らしい掌編。
堀部未知「バックコーラスの傾度」は何なのこれ。全身の骨をぐにゃぐにゃに外す芸を見た感じに似ていて(いや、そんな芸を見たこともないのだが)、全ての事象にいっさいの繋がりがないのに、辟易せずにニヤニヤと笑っていられる。支離滅裂なものはバランスを一歩間違えるとホントにもう興を削ぐのだが、本作は抜け具合が完璧。正しいのか分からない比喩、そのシチュエーションが特異すぎるせいで正しいのか分からないが少なくとも詳しすぎるチーズケーキすりおろしのディティール。「正解ってなんだろう」。それはこっちの台詞だい!! とにかく、色々なことを言われすぎて混乱している。それはとても心地よい未知の混乱だ。大好きである。
左沢森「銘菓」は短歌作品なのだが、どちらかといえば散文にも近いものもあって、平易なのだが分からなさが深い。前後にも何か不思議な文章が続いていて、そこから切り出してさらに不思議さを研ぎ澄ましているような。いずれにせよ、これは映像を思い浮かべるものではなく、ひょっとしたら意味を思うものですらなく、ただただ言葉の並びと印象なのだろう。「ただ子供が~」「見慣れてる~」「絵具には~」が特に好き。なのだが、これはたぶん達人に解説してもらう必要のある一作。
白城マヒロ「やさしくなってね」は不穏な一作。「それ」から感じるそこはかとない人間味が怖い。「腕」を確定できない形状で、「ごつごつ」と「柔らか」を備えているので、まず人間ではないのだが……なぜだろうか、私は「それ」は同じ人間なのではないかと思った。
 暴力による排除が英雄的行為(周囲にむけての「優しさ」)となるのだが、しかし本当に暴力が必要であったのか。「それ」が危険であることは自明とされており、じじつ作中では暴れもしている。しかし、家に連れ帰ることもできるし、ベッドに入るよう促すこともできる。語り手は「それ」を優しさで包むことを検討する。暴力を用いた調伏という前提を疑ぐる空気と、その理念の敗北が提示されているように読んだ。
 突飛で気まぐれな優しさ。それをもし与えることができていたなら、可能性がひらかれていたのかもしれないが、作中では暴力がすべてを上書きする。「わたし」と同種の存在とのディスコミュニケーションを描いた作品ではないかと一人合点しているのだが、どうだろうか。
 語り手の心の動きかたに、子供らしさを感じて、上手いなあと思った。
紙文「ロボとねずみ氏」は実にストレートなロボットSF。
 動いているものと動いていないものの区別がつくと自認していたロボは、なぜ、動かないねずみ氏のために自らを投げうったのか。ある時点から明らかにロボは機能不全を起こし、幻想をみている。故障はロボに目的をもたらし、死をもたらす。いっぽうで、故障によってロボの生は目的を得る。機能不全が招いた奇跡だ。
 目的を得ることが正しいことだと言っているわけではない。この物語が顕しているのは滅私の是非ではない。是であろうが非であろうが、一個の存在が、別の何者かを思いやる姿は、ただ、尊い。その尊さを純化しているのだ。

 このグループは全作が優勝でいいと思ったが流石にそんなわけにはいかない(いや、ジャッジじゃないんだから、どんなスタンスでも問題はないのですが)。ここは個人的な昂奮から「娘ルリリン しゃららーんハアトハアト」を推す。ジャッジの皆さん低い点をつけたらタダじゃおかんぞコンニャロ、というくらいには入れ込んでいるのだが、果たして。

グループD
鮭さん「イカの壁」は事件ですよ。姉さん事件です。
 展開の野放図さはさておき、私は一文めを読みたい。
「今日は家庭科の時間にイカ料理を作るってんだけど大変だったな」
「今日は~作るってんだけど」まではこれから起きることの話なのだが、「大変だったな」という一言の過去形によって全てが終結し時空が捻じれる。「自由です」という宣誓だ。こんな文章が書けるか!!すごいよ! あとはもう内容に関しては大爆笑ということで良いのではないかと思う。こうも振り切られては敗北を認めるしかなく、当然ながら私が読んで悔しかった1作。イカが横から縦になる描写がきちんと読みやすい。ポンポー。と泣きながらイカを食べることを今後のBFCの風物詩としてはどうか(何がどうかだ)。
 私にとっての鮭さんは、昨年の「イグBFC」という場外イベントで鮮烈な登場を遂げた書き手。カクヨムで公開されている「鮭さんのショートショート」は常人に書きえない文章ばかりで、楽しく読んでいたのですが、この大舞台で鮭さんの輪が広がることを嬉しく思い、祝辞の結句とさせていただきます。
瀬戸千歳「生きている(と思われるもの)」は情報開示の手つきが光る一作。
 何があったのかを明示しないが悟らせる手つきによって、ストレスのない圧縮をかけ、語ることのできる内容を増やしている。これはホントに上手いなあと思った。「光」が入ってきてからの動揺もすっと入ってくる。内容は語り口が端正かつ陽性なネットロア(師匠シリーズ的な)といった感で、読後感はエンタメに近い。こういうバディっぽい怪異モノは近来のキャラ文芸によくみられる印象。BFCには珍しい読み心地だが、ジャンルものには収まらない独特さ、オフビートなテイストが好ましかった。
・小林かをる「お節」は、圧をもったリアリズム文学。
 小林さんは昨年もBFCに参戦したファイター。本作には、前回大会の作品と共通した設定や人名がみられる。
 人名・地名・日時・事態。情報を淡々と連ねることで生み出される圧力がある。ぎょっとするようなことが平然と、情報として処理されていく。この提示のしかたが、語り手が達した境地を代弁しているように思える。
 語り手はあらゆる事柄を平坦につづる。いっけん無心にも思えるが、月に二度も新潟まで通う負担を背負い込んでいる。冒頭の逸話を「語ること」に選んでいる点から、語り手が美彌子を好ましく思っていないことは明白に思える。お節が捨てられる光景を想像すること、捨てられるであろうお節を横浜に郵送する行動。そこに語り手の意図をみる。悪意だとか復讐とまではいかない、一語で纏められないニュアンスの心情を。まあ、おせち料理など正月の研究室に送ったって仕方がないので横浜に送るしかない、という実際的なこともあるだろうが。
「東京のまだらのように変化する四季が五回巡った」や、お節の買い出しへ出るさいの風雪の描写など、練達した文章も光る。
 いまどき珍しいと言えてしまうスタイルの作品なのだが、こういう価値観は田舎のほうでは確かにギリギリ生きている(気がする。知り合いに金持ちがいないのでなんだが、類型のミニマムなやつは見たことがある)。しかし文章化されてしまうとホラーやファンタジーのように異化されて見える。不思議な読み味だ。
生方友里恵「カニ浄土」は異質なSF。
 環境汚染された星、かつての入植者の末裔が従事する「カニ」関連業。大きな背景を道具立てで簡潔に示し、生活感のある訛りを導入することでその地に暮らす生命体の生活感を濃厚に立ちあがらせる。おそらく6枚よりも短く、余裕をもって終わっている。語るべきのみ語る潔さは見事の一言。個人的にはもう一押し、密度があっても楽しめたが、これは塩梅の難しいところだ。
藤崎ほつま「明星」は二人の少女の交流について。
 物語は繋めなくするすると過去へと巻き戻っていく。改行や接続詞に頼らず過去へ突き進んでいく筆致は、あたかも人が思い出を思い返すときのシームレスな思考をトレースしていくようだ。試みとしてめちゃくちゃに好みだ。もっとも、その狙いに全体の文章も奉仕しているので、結果として独特の読みづらさも抱えている。ために、狙いが見えてくるまで取っ付きづらい感はあるが、これも好き好き。インスタントな読み心地を求めるのは良い読書態度とも言えない。とても面白く読んだ。
 ところで、たちばなさんは可哀そうだな。
伊島糸雨「爛雪記」は季節を司る神々についての記。素晴らしい想像力。
 四季の巡りと性質を一柱の神に詩的に託す。その言語感覚は天晴というほかない。四季というモチーフは頻出するものだが、季節の入れ替わりに着目し、滅びの季節を司る二柱の交流に最終的な的を絞った点が個性。世界観を裏打ちする造語の説得力も申し分ない。世界の特質、神々の人物性、そして物語性を、柔らかい語り口で短かい分量に織り込む手腕は天晴。これ単体で完成された一作であるとともに、おおきな物語の挿話のような広がりも示している。言葉遣いこそ難しいが、強靭な物語性からは、ファンタジー系の児童・ヤングアダルト文学の名作たちに似た佇まいも感じられた。筋運びが型をしっかりとなぞっている印象があるためだと思う。かっちりとした構造を有した佇まいにも、神話らしさを感じる。
 私見でのオール5点候補のひとつ。素晴らしい書き手だ。

 グループDは伊島糸雨「爛雪記」を推す。全くの個人的な好み。次が見たい書き手を推す。いやーしかし鮭さん「イカの壁」も、既に伝説になった気はするが、次どうなのか分からない感じもすごいので、勝ち上がって欲しい。全員にもう一作書いてもらうっていうのはいかがですか。

【1回戦を通読して】
・さて、全作を読んでのイチオシは「超娘ルリリン」。実験性と、試みを実現する筆力を高く買いたいところです。
 読み通しての感想ですが、初読の感じでは「イグみ」が強い、オフビートだったりユーモラスな読み味のものが多い印象でした。前回大会は緊張の張りつめた作品が多かった印象があるので、がらっと変わったなあという心持です。読み返してもその印象は変わりませんが、ジャンル・手法の多様性は保たれていたように思います。選抜の苦心がしのばれます。
 笑いの要素が全面に出てきた今大会。ファイターとしての私は、意図せずしてレッドオーシャンに飛び込んでしまったうえ、競合の多いなかでは小説としての厚みが足らず、殴り負けしたなあと思っています。まさかBFCがこんな様相を呈すとは思いもしませんでした。動き続けることは大切なことです。
 私はさておき「落選展」には、「なんで落選しちゃったの」ということを聞きたい作品が多くあります。それだけ界隈の人々のレベルが上がっているということなのでしょう。着実にムーブメントは広がり、根付いているのだなあと思いました。

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