ウエダアオイさんの「嘘つきのラブソング(acoustic ver.)」を語りたい、の感想を語りたい
MYAさんのnotoにコメントしようと思って書き始めましたが、長くなりすぎ投稿できなくなったので、自分でページ作ることにしました。
曲の考察、特に聞き手の視点、聞き手がどんな感情を抱くかを考えてみたいと思ってます。
以下、投稿できなかった文章。
原文ママ
初めてコメントします。
スマホからの書き込みなので、雑な文章である事ご容赦ください。
ウエダアオイが自分でも発言しているように、「酔っ払った勢いで書いた」詩らしいですね。
洗練された計算高いものではなく、矛盾・混乱・ジレンマをそのままに表現された詩のように感じます。その意味ではMYAさんの言ってるように、解釈に幅を持たせる曲だというのはその通りだと思います。
聞き手にとっても、様々なアナロジーで、自分に引き寄せて聞くことができます。
「大人ぶるな」というシンプルだけど刺さるパワーワードの前に、10ミリ越えの壁を持って来る。曲が書かれた頃の配信などでの発言から、10ミリがタールであるのは間違いないでしょうが、壁?
よくある話として想像できるのは、10ミリ以下はタバコと認めない、なんでイキってるクズ男に呆れてるということでしょうか?
でもね、自分だってそこそこクズなことも自覚してる。
そんなグジャグジャな感情は、言えるわけないし、普通は言わない。
でも、うまく消化することもできない。
だから歌に乗せて語るしかない。
芸術家、表現者はみんな似たようなところがあるかもしれませんが、ウエダアオイの歌も、「誰かに寄り添いたい」と発言されてますが、それは歌に救われてる人がいるんだということを知ってから生じた気持ちで、原点はやっぱり日記だと思うのです。
しかも、ルーティンとして、記録としての日記ではなく、排泄物のように、吐き出さないと死ぬから書いてるような、そんな日記。
ワンコーラスだけできて、ほったらかしが多いという、創作で食っていこうという人間としてはどうなんだ?というウエダアオイにしては、いっきに書き上げた(のではないかと思われる)曲です。
それだけ、全部吐き出さないと死ぬ、という毒素満載です。
聞き手の視点に戻りますが、みんなそれぞれ毒素を抱えながら生きますが、みんなが表現で排出できるわけじゃない。
「嘘つきのラブソング」は、そんなリスナーに、普通に聴いたら寄り添ってるなんでとても思えない。責任転嫁と自己顕示欲のドロドロの歌です。しかし、なぜか救われる。
ラブソング聴いてキュンキュンするような感情は遠の昔に忘れ去ったおっさんにもなぜか響く。
そんな、毒をもって毒を制すような、ウエダアオイの塊のような曲だと思います。
売れる時は、『知らんぷり』や『隠し事』みたいな、わかりやすいメロディーの曲が代表曲になるのかもしれませんが、コアなファンには愛され続ける曲に育つかも。
ウエダアオイのラインナップはそんな曲ばかりと言えば、そうかもしれないですけど。