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建築に哲学

ある人が言いました。
哲学とは、考え方を考えることである。
また別のある人が言いました。
建築とは、つくりかたをつくることである。

私はこの考えに共感しています。

建築設計 1年目、この言葉に出会う前は建築 (ケンチク) がほぼ建物 (タテモノ) を意味する言葉として使われていることに違和感を持ちつつも、明確に言い表わせずにいました。

建築: architecture が即ち建物: building ではなく、もっと幅広く思想を含むものと捉えていましたが、どうも腹落ちする言葉が見当たらなかったのです。

例えば IT業界では Software architecture や System architecture などがありますよね。
企業でいえば Enterprise architect もいますね。

やはり本来の architecture の概念は、
明らかに建物: building 以外におよぶ
ものです。

architect (建築家) は何かを構築する際に "そもそも何をつくるべきか" や "いかにしてつくるのか" を考えます。

建物にかぎらず、ビジョンを具現化するために "つくりかたをつくる" のが architect (建築家) のミッションであると信じています。

そもそも建築という概念、言葉自体が明治までの日本に存在しませんでした。
明治になって西欧の architecture を学ぶうえで考え出された言葉が建築 (ケンチク) です。

訳語の候補には、本質である原点を捉える設計思想術ということから原術というものがあったそうです。
本来の architecture の概念を表すには原術の方がより素直だったと思います。


世間一般には、建築: architecture をつくるのは一級建築士の仕事だと思われているのではないでしょうか。

一級建築士は建築設計の業界にいると当たり前の資格なので 「取らないと気になるが取っても喰えない」 ことの喩えとして 「足の裏の米粒」 なんて上手いこと言われます。

私はその一級建築士であるからこそ言いますが、一級建築士は建築家: architect の資格ではなく、あくまでも建物: building の法的確認を行うための単なるライセンスでしかないです。

なぜなら、一級建築士であることで設計技能が優れているかを測ることはできません。

十分な実務経験がなくても試験を受けることができますし、試験内容においても要求性能に対するディティールを考えるようなことは皆無ですし、建築: architecture に対する考えを問われることもありません。


試験内容からあらわになる一級建築士のミッションは、建物: building を適法状態で設計: design することに他なりません。

一級建築士は自動車の運転免許証と同じようなもので技能の高さが保証されるものではありません。

問題が生じた際には法的責任を負わせることを目的として、法に照らす上で "最低限" の設計知識を有することの担保として設けられたライセンスです。

だからこそ一級建築士に求められるのは高い倫理観です。

一級建築士による適法性をもった計画は、都市の整備全体にも関わりますし、建物の安全は人命に関わりますから、基準を満足していることを確認しながら設計することは社会に求められる重要な資格です。

しかしながら一級建築士の仕事の前には、architect (建築家) の仕事があるべきです。

architect (建築家) の仕事とは、
なぜ建物: building が求められるのか、
そもそも建てるべきなのか、
建てるならばどうあるべきか、
そのためにはどうするべきか、
といった物事の原点にある本質を見つめることです。

本質を特定し、
設計思想を明確にし、
計画における法そのものをつくり、
理想を実現すること、
これがミッションである architect (建築家) は、一級建築士であるだけで名乗れるような存在ではなく、そもそも異質の存在です。

なので、一級建築士であることは建築家: architect の必要条件ですらないと考えています。
(建築 = 建物 という話ではなく、ここでは建築とは思想を含むもっと幅の広いものだとしています。)

まとめますと、
一級建築士は "法に照らす" わけですが、
建築家は計画における "法そのもの" をつくります。


建築設計の業界にいると、このことがあやふやになっていて、建築: architecture と設計: design の違いを意識せず、まず設計ありきでモノゴトが進むように感じることがあります。

そもそも、設計: design はあくまでも、理想を具現化するために数値決めや仕様決めを行うものであって、建築: architecture: 設計思想によって理想や価値を定義してから行うべきです。

建築家: architect が問題と真摯に向き合い課題化し、何が良いのかを定め解決策を見いだし、人々を巻き込むビジョンを描くことで、理想を具現化するための設計: design に進むのです。

設計者: designer は図面や仕様書を作成しますが、建築家: architect はビジョンを描くことでディレクションし、理想に近づくためにマネジメントします。

建築家: architect であるために必要不可欠なのは、建築: architecture をどう捉えているのかの考えである建築哲学です

向き合う対象が何で、何が良いとされるのかの判断軸がなければ、いい建築: architecture などつくりようがありません。


言わずもがな建築に限ったことではなく、何が良いのかを知らなければ、良いものなんてつくりようがないですよね。

建築を捉える上で、光の取り入れ方や移ろいこそが重要だと考える建築家にとっては、芸術: art 的側面が建築には強く求められると思いますが、全ての建築がそれを軸にしているわけではありません。

やはり、建築とは 「つくりかたをつくる」 ことだという一点から揺らぐことはないと思います。

ちなみにこれはミース・ファン・デル・ローエの言葉だとされていますので、トップ画像はファンズワース邸を使わせていただきました。
(どこでの発言か原典に当たれていないので絶対ミースだと言い切れないのですが、たとえ別人の言葉であったとしても素晴らしい定義には違いありません)

ミースといえば "Less is more."
名言の中でも別格ですよね。
この端的な言葉自体にそのものズバリを体現していますし、物質的な洗練は精神的な豊かさだと本当にそう思います。


私は建築を 「人々の営みや事業を継続するためのプラットフォームでありシステム」 だと捉えています。

これをつくるうえでの判断軸は 3つあります。
「問題の解決になっていること」
「代替不能な掛け替えのない存在になっていること」「素直で無駄がなく合理性があること」


また、建物の設計を求められてもクライアントは "建物そのもの" を欲しているのではなく、あくまでも建物によってもたらされるだろう "出来事" を求めているのだと思っています。

近代までは、主たる問題解決策が建物だったがために、建築家: architect の描くビジョンの中心が建物: building ではありましたが、プログラミングが発達した現代においては、解決策はなにも建物に限定されなくなってきています

建物の設計ありきでは見過ごされることがありますが、減築や、そもそも建てずにソフトウェアで解決することが最適解の場合も考えられます。


私は市役所や図書館、学校、保育所といった建物の設計を12年間行い建築と向き合ってきましたが、解決策を建物: building にとらわれることなくゼロベースであるべき姿を描くのが新しい建築家像だと捉えたうえで、やはり本来の概念を持つ Architect でありたいとあらためて思うのです。


こうした考えから今も Architect の道を歩んでいるのだと思いながら、永続する事業についてを考えるコンサルタントに転向し、現在は事業会社で経営企画に従事しています。


以上、自己紹介として私の仕事についてです。

(解決策が建物: building であることを排除しているわけではありません。当然ながら建物はこれからも主たる解決策ですし、そもそもデザインすることが大好きですし、むしろ拘りが強い方だとも思います。)


最後まで読んでいただきありがとうございました。

これから自らの経験に根ざした設計や、思想、コンサルワークについてなどを書いていこうと思っています。(2022/06/12 初投稿)

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