意味付けをすること。

時々、世界の仕組みというか運命というか繋がりというかなんと表現していいのかよく分からんのだがそういうものに気づいてしまったのかもしれへんなこれはビビビと、電波的なものを受信する時があるのだけど、それは別に何か大したことが起きたときじゃなくて、むしろ日常の生活に勤しんでくるときに飛んでくるので面白い。

サムシングなグレートなんてものはもちろん存在しない。神も仏も人が人のいぢましさ故に作り出した、いぢましさって使い方これであってたっけと思っていちいち調べるおれのいぢらしさ(合ってた)はどうでもよくて、そう、神も仏もただの作り物なのだ。要するに人は弱すぎて、その弱さ故に怖ろしく大きく強いものを創り出してでもそれに縋ろうとするのだ。

地球だって海だって空気だって大地だって生き物だって人間だってオケラだってアメンボだってウィルスだって、なんかたまたまアレがコレしたらぽーんとできちゃいましたってなもんに過ぎなくて、だから親父が生まれたこともオカンが生まれたことも、その前のこともたまたまであるし、親父とオカンが出会ってなんやかんやあったこともたまたまであるし、俺の素がY精子であったこともたまたまであるし、そのYな俺の素が生存競争を驚異的なバイタリティで勝ち抜き卵子にゴールインしてどんどん手やら足やらちんちんやら生えて十月十日を腹ん中で過ごしてオギャーと出てきて看護婦さんの「なんで長い睫毛の!」と驚く声を聞いて「女の子かあ」と幾分オカンを落胆させたと思いきや「男の子ですよー!」と二の句を継いでジェットコースター的な喜びを与えたのも、たまたまのことに過ぎない。俺が地球という天体の日本という国の山口という県の下関という寂れた地方都市に生を受けたのには、最初から最後まで特にさしたる意味はない。楽ちんです。

でもやっぱり、生まれてきたことや自分の身の回りのことやなんやかんや色んなことの無意味を受け入れることはできても、俺が俺であることの無意味をいつだって受け入れていられるほど強くは生きられないし、そうできるようになりたいとも思わない。生きることにジタバタするあまりに、意味を欲するあまりに、神様なんてハンパないものすら創り上げてしまう滑稽さを俺は愛している。歌や絵画や言葉やダンスやありとあらゆる表現を通じて自分が自分であることの証明を試みてみたり、うわーもうアカーンってなりながら死んじゃったり生きちゃったりする人間という、たまたまちょっとでっかい脳みそ持っちゃったせいで万物の霊長とか気取って難儀なことになってしまった変な生き物のことが好きでたまらない。

だから俺は時々色んなたまたまに文脈を感じてみたり、繋がりを見出してみたり、知覚の及ばない何か不可思議なものに感謝をしてみたりする。取るに足らないちっぽけな一つの偶然に過ぎない、かけがえのないこの命をなんに使うべきか考えてみたりする。無為と有為と虚構と真実がごっちゃごちゃの闇鍋みたいになってる状態が一番楽しい。

こないだから、たまたま一人の人間が、生きるために恐怖を乗り越えて闘いを始めて、今日、全く関係のない別の人がやさしい人になるために恐怖を乗り越えて一歩を踏み出したことには、直接的な関係性など普通に考えて無いんだろうけど、その両方を観測している俺にとっては、それは一つの線になり得る。その線がいきなりばちーんと俺の眼の前に現れて、とても嬉しくなってしまう。あなたが何かやることも、別のあなたが何かやることも、俺が何かをやることも、それらは全て世界に対する働きかけで、無駄に終わったように見えるとしても、実はどこかで時々思いもよらぬ効果を生み出したり、もっと良いことには、人を生かしたりするんだよ。そう信じることができる。それってとっても最高なことじゃないですかーって。

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