HELLSEE

「悪を為すこともできる人間として、善きことをする」とは誰の言葉だったかどうしても思い出すことができないのだけど、詠み人知らずとて何も失われないのが言葉の良いところです。書く僕の意識なんてどこかに消えて、言葉だけがそこで生きていてくれたら良いんだけどなあ。

そこそこに悪いことをして生きて来たし、きっと今だってこれからだって、意識的にしろ無意識的にしろ誰かを傷つけながら生きるんだろう。いっそ開き直ることができたらという風には、全く思わない。世界というのは人々の共同幻想、嘘、物語、つまりは祈りで形作られていると僕は頑なに信じているので、そのヴェールを剥いだ先にある真実なんて下らない、しょうもない、なんぼのもんだと思ってしまう。

僕は時々ひととひとの間にある圧倒的な疎隔を忘れてしまう。自分がこう思っているのだから、相手もそうだろうと身勝手な類推を行ってしまう。無遠慮な言葉を吐いて、それが結果としてコンプレックスを刺激することに繋がってしまって、そうしてきっと傷つけてしまっている。謝ることが藪蛇になってしまうのではという怖れから、素直にごめんと言えないこともたくさんある。スマートさが分からねえんだ、育ちが悪いからさあと独りごちて、それもただの言い訳に過ぎなくて、なんだかねえ。

善い人間だと思われたい訳ではなくて、感謝されるのはむしろ嫌いで、それでもどうか、少しでも善いことをさせてくださいと願うのは、あの時誰かに助けて欲しくて泣いてた自分を救うためなんだけど、この説明って全然伝わんないんだよなあ。
大人になるって僕の中では、次に来る小さいひとたちのために「この世界は生きるに足る場所だよ」っていう嘘をちゃんと付いてあげることでしかない。その嘘を出来るだけ、限りなく本当に近いものに仕立て上げることでしかあり得ない。いつか小さいひともそれが嘘だって分かる時が来るんだけど、それでへこたれたり絶望したりせずに、しゃあねえなこの嘘を今度は自分が引き継いで、もうちょっと出来の良いものにしてやるかと思ってもらえるように、世界を拵えることでしかないんだと思うんだよ。

今日は主に仕事のことで本当に最悪な、地獄みたいな光景をたくさん見た、クソみてえな1日だったけど、なんでこんなことが起きるんだなんて嘆いたってしょうがないし、現象はそこにもうすでにある訳で、そういうこともあると呑み込んでいくしかない。現象に対してこれからどうするか、そこのところの自由だけは保障されているんだから。

「人間だけが地獄を見る。しかし地獄なんか見やしない。ただ花を見るだけだ」ってこれは詠み人知らずではなくて坂口安吾の教祖の文学における締めの言葉です。背伸びをして飛び上がるような生き方をすればそりゃあ墜落もするし尻餅もつく。それでも襤褸を曳いて、花愛でながら、死ぬまでジタバタして、そしたら最後の時、笑って死ねるでしょう。

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