君に届くな/ディスティニー要らない

この世のありとあらゆる事象に本当のところ必然性なんてない。神様の思し召しも因果応報も本当には存在しなくて、あるのは偶然だけ。偶然産まれたり偶然死んだり偶然出会ったり偶然別れたり偶然酷い目に遭ったり偶然楽しいことばかりで生きていけたりする。善いことをしている人間に幸福が訪れることはなく、悪事を働く人間に天罰が下ることもない。世界はそういう不条理の上に成り立っている。

けれど、人は不条理に耐えることが出来ない。既に起きた事象に対して、意味や理由を求めてしまう生き物が人間だ。それが故に人間は神を求め、運命を求め、不条理な現象を司る何かの存在を仮定して、それに名前を付けることによって自らの心を慰めて来た。
それ自体は悪いことではないんだけど。

僕の家は仏教系の新興宗教に一家総出で入信していて、僕は選択の余地なく、当たり前に信仰を植え付けられて育った。いや、植え付けようと試みる母の元で育った。母は「因果」という言葉が好きで、全ての物事に原因と結果があり、良いことも悪いことも、全て自分の中に原因があるんだよと僕に語って聞かせる。なんでやねんと僕は思う。それはおかしいやろ、って今でも思っている。

全ての事象に対して自分の中に原因を求めなくてはいけないというのは、悪意や暴力や天災に身を晒された人間に石を投げなくてはいけないというのと同じことだ。交通事故に遭った人には安全運転しなかったからだって言わなきゃいけないし、レイプされた人には襲われるような服装していたんだろうって言わなきゃいけないし、通り魔に襲われた人にはそんな時間に1人で出歩いているからだって言わなきゃいけない。自然災害で家や家族を失くした人には、そんな場所に住んでるからだと言わなきゃいけないし、癌になった人には、あんたの健康管理が甘かったからだって言わなきゃいけない。そんなのは馬鹿げている。そんな風に自分や他人を納得させるなんて真っ平ごめんだと思う。

だから僕は代わりにこう言う。あなたがそうなってしまったことに理由なんてないし、たまたまそうあるようになってしまっただけなんだって。自分で選び取ってきた物事のうち、何一つだって悪いことなどなかった。だってそんなの関係なく、事象は巡り来るんだから。何も悪いことなんてなかったし、何も間違えちゃいないんだよって。

既に起きてしまったことに対して今を生きている人間ができることなんかない。だから、僕は常にこれからのことを考える。沢山の痛みや苦しみや悲しみを乗り越えてでも、今を生きる他ない貴方や僕が、せめて少しでも楽しく明るく生きていけますようにと、そう祈る他に一体何ができるって言うんだろう。どうか自分を責めることのないようにと、願う他に一体何ができる?

この世に必然はなく、運命はなく、唯一無二なものはなく、代替不可能なものなんてありはしない。そんなもの、あるとしたら、このどうしようもない自己という存在だけだ。そう考えるのは結構しんどいことかもしれないけど。

でも、それだからこそ、いつどこで何をしようが、何を好きになって何を嫌いになろうが、運命にも必然にも縛られない私たちはこの上なく自由だ。あらゆるものが代替可能なこの場処で、誰でも良いのに誰かを選び、何でも良いのに何かを選ぶ。そんな風に、世界は可能性に満ち溢れている。 

起きてしまった事象のせいで、二度と手に入らなくなってしまった、喪われてしまったものも確かにあると思う。けどそれだけが特別だったわけじゃないはず。というか、特別なものなんて無いんだから。

理由も原因もなく、ただ付けられた疵がある。その疵をただ疵として見ながら、耐え難いこの不条理の最中で、寄る辺のなさを抱えてあらゆる手段を持って懸命に生きている。きっとそれは誇って良いことだし、何度でも言うけど、何も間違っていない。そうやって生きる人を、俺はまるっと全て引っくるめて美しいと思う。これは、慰めでもなんでもなくって、本当に心からそう思う。

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