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学生時代にすべきこと

先日大学を卒業した。
国技館で執り行われるはずだった卒業式は中止。
学部単位での授与式にとどまった。
それでも女の子たちはカラフルな袴を身に纏い最後の別れを惜しんでいた。


小学校から大学まで、思えば16年間学生生活を送ってきた。
振り返ってみれば、様々な出来事がありながらもかなり充実した時間を過ごしてこれたと思う。

16年間という数字だけみれば膨大な時間を過ごしてきたように思うが、その中で私は一体何をしてきたのだろうか。

もちろん国数理社英を始めとする勉強だろ、と言われるかもしれない。
しかし、学生の本分とは何も勉強に限ったことではないように思う。

今回は、16年間学生をしてきた中で、私が気付いた「学生時代」に本当にすべきことは何かについて書いていきたいと思う。
学生のうちに書くことに意味があり、これを書き上げることが本当の意味での卒業だと思うからだ。



私は大学一年の後半から大学二年の終わりまで
塾の講師としてバイトをしていた。

その際、生徒に「なぜ勉強するのか」という類のことを聞かれることが少なくなかった(大抵の場合質問というよりは愚痴)。
なぜ勉強するのかと聞かれれば、将来のため、いい学校に進学するため、仕事で使うからなど、それっぽく曖昧な答え方をしてしまいがちである。
そうして実際、そう返す人の方が多いだろう。

では、私は何と返したのか。

「その答えは自分で探さなければいけない」

である。
めちゃくちゃぶん投げた。人に聞くな、自分で探せ。

…お前、分からないからてきとーに応えただけだろそれ…

読者の諸君のそのような心の声が聞こえてきたので補足するが、断じて投げやりに答えたのではない。


確かに自分も学生時代に「なぜ勉強しなければいけないのか」という疑問を持ったことがある。
幸いにして勉強が好きな方だったので、そんな疑問が沸き上がってきても「好きだからいい」で一蹴できたのであるが、
高校生活も終わる頃、所謂受験期真っ只中
私はふと、社会一般的になぜ勉強するのか考えてみようと思った。


ただ、めちゃくちゃ単純に考えても
国語全般は日本語を話す上で必要だし(ただ話すだけなら学ぶ必要はないのかもしれないが、人に分かりやすく伝える話し方を習得するという点では学ぶ必要がある)、数学も理科も今何が起きているのか事象を理解する上で必要である。社会も、現社や公民であれば生活に根付いたものであるので学んでおいたほうがいい。
英語に関しては、外国行かないので話せなくても大丈夫、といいたいところだが、日常生活に英語表記が溢れている以上話せなくても読むことはできたほうがいいだろう。

こうなってくると、基礎教科は日常生活を送る上でわりと使っているということが分かる。

「なんだ、これがお前の答えか、つまらん」と思った方、正解。
私も書いていてなにこれつまらん、と思った。


しかし、上記の教科は深く考えるまでもなくまあ勉強しといたほうがいいよなと思えたのだが、
当時の私が1週間くらい考えなければなぜ勉強するのか分からなかった教科がある。
それは「歴史」だ。

え?歴史?日本の文化を学ぶためじゃないの?過去に起こったことを繰り返さないためじゃないの?

と思った方、それもまた一つの答えである。

しかし私はそれにイマイチ納得ができなかった。歴史を学んだところで繰り返してしまう出来事は繰り返すし、文化に関しては美術や古典で学ぶことができる。果たして「歴史」として学ぶ必要があるのか。
私は納得できる答えがでるまで実に一週間悩み続けた。


もったいぶっても仕方ないので言うが
悩みに悩んだ末出した結論は

今を知るため」である。

私たちが生きている今・現在が
客観的に見ていいのか、悪いのか。正しいのか正しくないのか。
現社や公民では同じ時間軸で諸外国と比較し、日本の在り方を評価することができるが、
日本と日本を比較し今起きている事象を理解するためには、歴史を勉強する必要がある。
現に、現在と昔が違うと言えることも単に経験則としてではなく、私たちが歴史を勉強してきたからである。

太字で示していたので、なんとなく察した方がいると思うが
考えを掘り下げていくと不思議なことに全て同じところに終着点があった。

国語も数学も理科も社会も、勉強をすれば今起きている事象を理解することに役立つ。
語学は少し難しいのだが、母国語と違う表し方や意味のニュアンスを捉えることで、今起きている事象を別の角度から表すことに役立つ。

そもそも、普通に生きていくうえで今を理解する必要はあるの?という意見もあるとおもうが、
悲しいことに人類は一人では生きていけない。そのため他人と協力して生きていかなければならないのだが、他人と接する上ではコミュニケーションというものが発生する。
他人と同じようにモノを捉え、理解し共有する。そして同じ方向を向いて生きていくためには現状を的確に理解する必要があるのだ。


しかし、だ。しかしである。
私が言いたいのはそういうことではない。
一個人が考えたしょうもない勉強する理由ではなく、
考えに考えた先に行きつく場所は同じという結論が大事なのである。
いや、もっと言ってしまえば
その結論に至るまでの過程がものすごく大事なのだ。

私はその結論に達するまで
受験勉強の最中、なぜ勉強するのか一生懸命ずっと考えていた。
文字通り寝ても覚めても、だった。
一週間も同じことについて考えるということは想像を絶するくらい頭がおかしくなる。
考えても考えても結論の出ないことを、ずっと考えるのは苦しく辛い。途中で考えることを放棄しそうにもなった。

しかし、考えることをやめなかったからこそ、私は自分なりの答えを導きだすことができたし、全ての教科が一つの点に収束するという新しい発見も得ることができた。
これは今でも学生時代に得た大きな収穫だと思っているし、考え続けた人にしか見えない景色であると思う。

だからこそ、私は生徒に
「その答えは自分で探さなければならない」と言うのである。

答えが重要なのではなく、
考え続けることそのものに価値があるからである。

そのことを身をもって実感しているし
できることなら私が関わった生徒にも、同じように苦しみながら一つの結論に達して欲しい。
そしてその頂から新たな気付きと景色を眺めて欲しい。
そんな思いで生徒と接していた。


私が16年間学生をしてきた中で得たものは、何よりもまず「考える」ことが大事だということである。
勉強は「考える」きっかけでしかない。
いや、勉強だけではない。
人間関係(友情・恋愛・先輩後輩)、部活、バイト等を通して私たちは何かを「考え」、そして何かに「気付かな」ければならない。

考え続けること、勉強をすることによって一体何が変わるのか。
一つ言えることは、メタな視点を養えるということである。
簡単に言えば、複眼的視点を持つまたは、自分とは逆側にいる人間を想像すること等である。要するに想像力。それが膨らんで人間力になる。

例えば
(「なぜ勉強するのか」で検索をかけるとでてくるのだが)
一杯の水が入ったグラスがあるとき、
国語なら「透明なグラスに水がなみなみと注がれている」
算数なら「グラスに水が120mℓ入っている」
社会なら「南アルプスでとれた水がグラスに入っている」など一つの事象を複数の視点で見ることができる。

また、飲食店でバイトをすれば
今まで客目線でしかなかったのに店員の気持ちが分かるようになったりする。
部活でも恋愛でも然りである。

上記のように考えるきっかけになるのであれば、別に勉強でなくてもいい。
とにかく経験をしろ。なんでもいい。
そして考えろ。

学生時代に経験した様々なことをきっかけにメタな視点を磨くことができれば人間力が養われるから。

そのために、貴重な16年間を社会や国のために働くのではなく、学生として与えられているのだ、と私は思う。

ただ、この期間をこなすべきノルマとしてでしか勉強しなかったりすると
所謂「勉強しかできないやつ」になってしまう。
流されるままバイトや部活をするのも「それしかできないやつ」の典型である。

学歴が高ければ高いほど人間力が高い、に相関が得られないのはこのためだ。


めちゃくちゃ長くなってしまったがまとめると
とにかく私たち学生は16年という年数をかけて人間力を高めることが求められていると言える。

学生時代は自分なりの哲学をつくる期間である。
また、それまでの価値観をぶっ壊しやすい期間でもある。

だからこそ
なんでもいいからたくさん経験を積んで
それを基に自らたくさん考えて、自分なりの答えを見つけ
複数の視点を持ち、社会に還元できる人間力をつける。

それが学生時代にすべきことである。


この文章を読んだすべての学生が
パスカルのごとく考える葦となり、様々な経験を通じて誇り高き自分と出会えますように。 

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