
2024/10/22
祖父の見舞いへ行った。祖父は怪我をしたことをきっかけに入院したが、そこで肺炎を起こしたことで容態が一気に悪化し、いまでは点滴を受けながらほとんど寝たきりの状態らしかった。話は母から聞いていたが、あまり悲観してはいなかった。最初は退院すれば、老人介護施設に行く予定だと聞いていたので、まだ以前の状態に回復する余地が十分にあるという気がしていたのだった。
でも病院へ向かう車中で、祖母から、もはや祖父は家に戻ってくることも老後施設へ行くこともできないという話を聞かされて、だんだんと雲行きが怪しいなと感じるようになってきた。数年前から認知症を発症し、自分のことをちゃんと認識しているのかどうかもよくわからない祖父というのは、自分のなかではどこかもう死んだような気持ちがあるのも正直なところだったが、その話を聞いてはじめてちゃんと祖父の死を意識するようだった。これまではあくまで観念的な死だったものが、具体性を持って迫ってきた。その死の具体性はつんと胸を刺すようなものだった。
病院へ着くと、面会は二人ずつ15分までという制限が知らされたので、祖母と兄、母と私という二人組で分かれることになった。先に兄と祖母が行き、10分ほどで戻ってきたので、続いて私と母が祖父の部屋へ向かった。面会申込書に記入し、伝えられた部屋へ入ってゆくと、狭い部屋に三つのベッドがあった。どれもカーテンがライトブルーの掛けられていて、私と母は二人で順番にそれをめくって確認して行ったが、どれが祖父なのかわからなかった。そこで病室の部屋番号を確認したが、やはり合っているはずで、仕方がないのでもう一度カーテンを捲ると手前のベッドの側に祖父の名前が書かれたカードがあった。そのベッドで眠っていたのは、かつての祖父のようには見えないほど痩せ細り憔悴し、変形したようにさえ見える祖父だった。その姿は、人というよりも、海岸に流れついた流木のように見えた。
(省略)
面会後、いまでは祖母が一人で暮らす祖父母の家へ行き、スーパーのロールケーキを食べ、結婚をしないのかと祖母に言われ、近隣の高齢者のコミュニティについて話を聞き、それからまた兄が運転する車で家へ向かって戻るあいだ、なんとなく死について考えていた。
あえて端的に言い切ってしまうと、祖父はもはや死んでいるように見えた。だが勿論、祖父は生きている。彼はわたしの言葉や姿に、わずかではあったが、たしかに反応し、そこにはコミュニケーションもあった。でも、それでもわたしには、自分はいま死者と接しているという感覚が拭えない気持ちがあった。
iPhoneに残したメモを引用する。
死というものはある時点でそこへ到達するある瞬間というより、多くの場合においてむしろ、たとえば白い壁に張り付く蔦が徐々にその壁面を覆ってゆき、最後にはそれを覆い尽くしてしまうように、グラデーション的に存在するものであるという気がした。奇妙なことに、生の中に死が存在している。