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日記 2024/06/02


 昼に外へ出ると、陽が強く差していた。でも空は重たげに曇っていて、その隙間を無理に突き抜けて出てこようとするような強い陽射しだった。夜のうちに雨が降っていたのだろう。湿気のせいで近くの川から、じめっとした空気とともに土や草木の匂いが漂ってきていた。それはなんとなく僕を落ち込ませた。自然の吐き出した息を顔に吹きかけられるような気がしたからなのかもしれなかった。もっと湿気がひどくなると、数キロ先の海から、きっと潮の匂いも届くはずだった。僕は街を歩いているときに潮の香りを嗅ぐと、いつも子どものときの記憶がいつも蘇ってくる。小学生の時に、母と元町の繁華街辺りを歩いていると「潮の匂いがする」と母が唐突に言ったのだった。その言葉を聴いた途端、僕はそれまでは全く意識していなかった筈の潮の匂いを鼻元に感じることができたのだった。そしてそこからしばらく先にある海から潮の匂いがここまで流れてきているということを想像し、驚いた。街中に海が満ちているようなイメージを持ったことを覚えている。堤防から青い海がゆっくりと流れ込んできて、中華街もビル街もアーケード商店街も呑み込んでゆく。街を覆った海はそれに飽き足らず、神戸の険しい坂道をなんなくのぼって住宅地や高架線、さらにはその先に聳える山まで到達し、最後には辺り一体が海の底のような、淡く青みがかった印象の風景になる。それは津波ではなく、もっと観念的で、やさしく包み込むようなイメージで、子供心には美しく鮮烈なものだった。
 そして大人になったいま、僕はだれかと歩いていて潮の香りがするのを感じると、「潮の匂いがする」となんでもなく呟いてみたりする。それによってあわよくば、隣を歩くひとの頭の中に、僕がかつて思い描いた海が街を包み込む美しいイメージが想起されやしないかと、少し期待するからだ。

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