リズムを教えるということ      ーまたは教養教育についてー

 ドラムを人に教えていると、うまくいかないな、と思う瞬間がよくある。

 その人の演奏が稚拙だからという訳ではなくー初心者の演奏は当然聞くに堪えないほど稚拙なモノなのだーこちらをチラチラ見て、「このリズムは正解なのか」と伺うのに必死になっているからである。

 勘弁してくれ、リズムに正解などない。

 もちろん、演奏者が乗るべき拍というものは存在する。つまり、メトロノームやヘッドホン、または指揮者から刻まれる一定のテンポはある。
 だが、リズムとは身体が生み出す、拍からの逸脱ズレである。我々がドラムの演奏を聴くときには、曲が持つテンポからの極めて小さなズレを心地よく感じ取っているのである。
 もしも太鼓の達人よろしく、五線譜上のノーツが示す規則的なタイミングで正確に叩けること、そこからできる限りズレないこと、上等なメトロノームであることが上手いドラマーの定義になるのであれば、何故人間がドラムを叩く必要があるのだろうか?
 
ピアニストの例えでもいい。演奏が譜面の再現であり、ピアニストの巧拙がその再現の精度に他ならないならば、何故ピアノをいまだに人間が弾いているのであろうか?
 
打ち込みが人間の演奏に(今のところ)勝てない理由はここにある。コンピューターは人間よりも正確にテンポを再現できるが、それはあまりに正確すぎて、テンポとの溝グルーヴが存在しないのだ。

 繰り返すが、リズムとは正しいテンポを再現することではない。むしろ、正統なテンポからズレていくことである。よって、巧い演奏は存在するが、正しい演奏というものは存在しない。

 だから、リズムを人に教えるというのは決して容易ではない。まず手本として教師が横でリズムを刻んでみせる必要があるが、学習者がそのリズム(もちろん正確ではない)を追いかけ、タイミングが完全に合致するよう努めた時点で、その刻みがその人の内から溢れ出るものではなく、外部に合わせようと生み出されたものである時点で、リズムは不自然なものとなる。
 しかし困ったことに、教師は「正解」を提示することしかできない。いいか、こうズレるんだぞ、と教えようとしても無駄である。教わる側は教師の、そのズレた演奏を一生懸命再現しようとしてしまうだろう。
 
 正しいテンポというものを提示しながらも、そこからの逸脱を生み出していく。このような緊張関係がリズムを教える時には必要なのである。

 さて、教養を教えるというときにも全く同じ問題がある。
 確かに知っておくべき知識というものは存在する。私は自分で選んだ本を自分のペースで読むのが好きだが、その読書は小中高で叩き込まれた正しい知識の蓄積の上にある。もしも基礎的な知識に極めて乏しい人間に金を渡して本屋に放り込んだとて、大抵の本は読めないだろうし、そもそもどんな本を読めばいいのか途方に暮れてしまうだろう。
 だからと言って、教師が必要だと言う学びを全てこなすことだけが教養なのか、と聞かれれば、そうでないと多くの人は答えるのではないか。
 大学において、授業で指定されたテキストや、卒業研究で必要な資料以外の本を読まない学生が急増しているという。貧しいことだ。いや、別に本に限る必要はない。映画を見に行ったり、友人と飲んで討論したり、または資格の勉強をしたり、これらは全て学びの一環である。
 問題は学生が、これらの営みを学びから切り離してしまっていること、言い換えれば、大学の学びというものを、授業と課題、卒業研究という極めて狭い領域に限定して認識してしまっていることではないか。

 もっと貧しいことは、教養の危機を訴える論者の多くが、「教養とは大学が提示する、正しい知識を身に着けることである」以上のことを主張できていないことである。これらの正しい知識はリテラシーと呼ばれる。
 同じことを繰り返すようだが、リテラシーがなければ学びの効果は小さくなる。とりあえずの正解を知らなければ、肯定的に読むことも批判的に読むこともできない。初心者が適当に叩いても心地よいリズムが生まれないのと同じである。
 あえて抽象的な言い方をすれば、正統な知識(正解)を知らなければ、逸脱もできないのである。だが、大学の学びとはその「正しい」知識の上に成り立つ、自身の関心や問題意識に基づいた「偏った」ものではないのか?

 実践的な話をしよう、自律的な学びの重要性を、大学や文部科学省をはじめとした行政は幾度となく喧伝している。一方で、大学は教育の質保証という旗印の下、リテラシーの科目を必修の教養教育として増やし、授業への出席を厳格化し、「役に立たない」科目を削ることによって学生の自由を奪っている。
 授業をサボるのが良い学びであると言いたいわけではない。しかし、学びがあくまで学生の興味関心から来ていること、そしてその帰結として興味の持てない授業をサボったり「切った」りすることを、大学から黙認される自由があるのではないか?
 サボるのは認められないとしても、現在の教養教育と名付けられた授業の数々が、学生の興味関心に根差していない事、学生がパンキョーを「乗り切る」ものであると見做していることは、もっと正面から議論されなくてはならないと私は考える。

 人間は完璧な演奏をすることができない。しかし、その不完全さやズレが豊かなリズムや旋律を生み出していくのであり、完璧な再現としての演奏しかできない機械の演奏が人間のそれにとって代わる時代はしばらく来ないと私は思う。
 同様に人間は完璧な知識網を個人の中に生み出すことができない。しかし、その欠如や偏り、正統からの逸脱こそが豊かな文化や言論を生み出していくのであり、大学の学びは偏ったり周りの人から考えがズラしたりするために行われるモノのはずだ。

もしそうでないならば、何故人間が学ぶ必要があるのだろうか?

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