スマホなしでは大学生活は不可能?

私は,二○一九年三月に大学を定年退職したが,それまでに,四十年ほど授業を担当した。そして,四十年の間に,授業の形態も大きく変化した。
 教え始めた頃は,黒板とチョークの時代である。教師が,チョークで板書し,学生は,それをノートに写す。一コマの授業が終わると,手は,チョークで真っ白になるし,服にもチョークの粉がついているという有様であった。
 そのうち,コンピュータ時代になって,パワーポイントが登場した。板書をする必要がなくなり,コンピュータのキーを押せば,画面が切り替わる。板書内容もあらかじめ整理しておける。私も,かなり早い段階からパワーポイントを使い出した。チョークの粉まみれになることもなくなった。ありがたかった。
 しかし,パワーポイントには,致命的な弱点があることがすぐにわかった。画面が切り替わると,前の画面が消えてしまうのである。使い始めの頃は,画面を切り替えるたびに,教室のあちこちから,「アー」という学生たちの声が聞こえてきたものである。画面の内容を全部ノートしきれないうちに,画面が切り替わってしまったからである。そのことに気づいてからは,教室を見渡して,大半の学生たちが写し終わるのを待つことにしたが,それはそれで,困ったことになったのである。一番遅い学生のペースにあわせると,授業がだれてしまうのである。
 そこで,思い切って,パワーポイントを使用するのをやめ,板書内容をハンドアウト(学生たちは,プリントと呼ぶ)にして配布することにした。これなら,授業をスムーズに進められる。ハンドアウトも,最初は,印刷して,教室で配布していたが,そのうち,すべてPDFファイルにして,大学のサーバーに置いておき,学生たちには,大学のサーバーにアクセスして,ハンドアウトをダウンロードして,自分でプリントアウトして,教室に持ってこさせるようにした。
 そうすると,どうなるか。確かに授業は,スムーズに進むが,教室に来ない学生たちが増えたのである。授業に出席しなくとも,ハンドアウトが手に入るからである。もちろん,ハンドアウトだけを見ても授業内容は理解できないはずであるが。
 ハンドアウトを使った授業では,教師の話をハンドアウトにメモするだけでは不十分である。ハンドアウトとメモから,自分の講義ノートを作成しなければ(つまり,教師が使っている講義ノートと同じものを自分で復元する作業である),後から見た時に授業内容を思い出せないはずである。しかし,これをしている学生はいないであろう。
 ハンドアウトを使う授業は,教師にとっては楽であるが,本当のところは(講義ノートを復元する作業をするとすると),学生には大きな負担になると私は思っている。定年で大学を退職する前あたりから,もう一度,黒板とチョークを使った授業に戻った方がよいのかなと思い始めたのであるが,結局,楽な方を選択してしまった。チョークの粉まみれの授業は,やっぱり,大変だなという思いが強かったのである。
 スマホが普及し始めると,学生たちのノートの取り方も変わった。パワーポイントを使っている授業では(黒板を使っている授業でも同じなのであるが),画面(あるいは,黒板)をスマホで写真に撮る学生たちがいるそうである。(私の授業では,ハンドアウトを使用するので,こういうことはなかった。)これなら,画面(板書)をノートに写す必要はない。今の大学の授業では,パシャパシャという音があちこちから聞こえてくるのである。もちろん,スマホで画面や板書を写真にとれば,記録としては残るが,この方法で授業内容を理解できるかと言えば,無理であろう。私などは,古い人間であるから,手を動かして,ノートをとらないと授業は理解できないと思っている。ノートをとることは,単に記録を残すことではないのである。(中学生の頃には,更半紙に英語の単語を何度も書いてスペルを覚えたものである。)
 スマホが普及して変わったことが,まだまだある。ゼミの発表では,原稿を準備してきて,教室では,それを読み上げるのがかつてのやり方であったが,最近の学生は,スマホ片手に発表を行う。スマホに発表原稿が入っているのである。(テレビニュースの現場中継でも,スマホ片手に報告をしている記者が増えてきた。)また,授業に辞書を持ってこない学生たちもいる。英文学科の授業であるから,辞書は必須と思う方が多いと思うが,スマホがあれば辞書は必要ないのである。
 もちろん,授業中でも学生たちは,スマホをいじくっている。授業でビデオを見る時には,教室を暗くするが,あちこちでスマホが光っているのが見える。電車やバスでスマホを見ている人が圧倒的に多いのであるから当然ではあるが。ちなみに,私は,スマホは持ってはいるが,ネットでの検索やメールは,パソコンでやるので,スマホは,ほとんど使わない。(バスの中でも,スマホは見ないで,外の景色を見ることにしている。)緊急の連絡用に持っているようにと妻に言われているから持っているだけである。しかし,あまり使わないが,しょっちゅう充電しなければならないのが面倒である。
 大学教員にとって大きく変わったことは,論文の書き方が変わったことである。昔は,原稿用紙を一マスずつ埋めていた。原稿を提出するまでに,何度も,全部を書き直さなければならなかった。
 英文学科の英作文の授業では,ペーパーを書くときには,材料を集め,アウトラインを作成して,そのアウトラインに基づいて書くように教わったものである。今でも,アメリカの大学の英作文の教科書にはそう書いてある。私の個人的な感想では,これは,タイプライター時代のやり方ではないかということである。タイプライターでも,ペーパーの完成までに,何度も全部を打ち直さなければならない。実に面倒である。完全なアウトラインを作成し,それに基づいて書けば,何度もタイプを打ち直すことはないであろうということであると思っている。
 しかし,今は,コンピュータの時代である。切り貼りは自由である。全部を打ち直す必要はまったくない。したがって,私は,論文の書き方を変えたのである。アウトラインは作成し,論文全体の構想は練るが,材料を全部そろえる必要はない。書けるところから書けということである。欠けているところは,後から足せばよい。論旨がおかしいと思えば,切り貼りして訂正すればよい。文章を改訂するのも簡単である。私は,コンピュータで論文を書く時には,大きな改訂をするたびに,ファイル名に,順番に,番号をつけていくが,番号が二桁になることも珍しくない。時代にあった論文作成法があるはずである。(しかし,学部時代に教えてもらったパラグラフ・ライティングの考え方は,今でも,日本語で論文を書く時にも大いに役立っている。)
 他の研究者の著作からの引用も楽になった。昔は,引用箇所を自分で入力していたのであるが,最近は,PDF形式の論文ならば,簡単に,コピペができる。入力ミスもなく,原文のまま引用することができる。
 印刷会社に渡す原稿もデジタルである。昔は,組み版のゲラで,朱をたくさん入れたが,今では,ゲラにたくさん朱をいれることはない。ワープロは,スペルチェックもしてくれるので,ゲラの段階で英語の単語のスペル間違いを訂正することもなくなった。楽になったものである。
 論文の書き方だけでなく,研究資料の収集方法も大きく変わった。昔は,論文を読んでいて,参考文献に載せられている論文を読むためには,四方八方手を尽くして,そのコピーを手に入れなければならなかったものである。一九八九年から一九九○年にかけて,在外研究の機会を与えられて,マサチューセッツ大学で一年過ごさせてもらったが,当時でも,大学院の授業を聴講して,最新の研究はどうなっているのかを調べたりしたものである。時間があれば,図書館にこもって,日本では手に入らない雑誌のコピーを一生懸命にしたことを思い出す。(この時には,アメリカの大学では,五〇枚分とか百枚分のコピカードがすでにあった。)今では,インターネットを使って,自分の研究室で,世界中から論文を集めることができる。(もちろん,大学は,莫大な費用を出版社に払っているのであるが。)残念ながら,大学をやめるとオンラインで論文が読めなくなってしまった。お金を払えば,論文を手に入れることができるが,これがメッチャ高い。一度,試しに値段を見たことがあるが,十数ページの論文で四千円あまりであった。なんとかならないか。

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