真逆

 言語が変化するのは,常識である。新しい単語が使われだし,以前からあった単語が廃れていく。最近,よく耳にする言葉が「真逆」である。昔から「正反対」という言葉があるが,今では,多くの人が,「真逆」を使う。若い世代ほど,よく使うそうで,年長者は,あまり,使わない。(一度,あるテレビ番組で,ある出演者が,日本語には,「正反対」という言葉があるのに,なぜ,「真逆」と言うのかと批判していたのを見たことがある。)私も,「真逆」は,自分自身で使うことはないと思っている。文章を書く時には,「正反対」を使う。しかし,テレビなどを見ていると,ほとんどの人が「真逆」と言う。「正反対」という言葉を使う人はいない。一度,「真反対」という言葉を使っていた人も,テレビで見たことがある。「真下」や「真上」という言葉があるのであるから,「真反対」は,間違いとは言えない。
 明らかに間違った使い方がされているのは,「生徒」である。だいぶ前から,学生たちが,自分たちのことを「学生」ではなく,「生徒」と呼ぶことが多くなった。私は,機会があるごとに,「小学生は児童,中学・高校生は生徒,大学生は学生」と注意してきたのであるが。一度,ある新聞の記事で,大学生のことを生徒と書いているのを見たことがある。この記事を書いた記者が,学生時代に使っていた言葉を,間違いとは気づかずに使ったのであろう。(新聞社には,校閲部があって,チェックをしているはずであるが。)先日も,あるテレビ番組で,ある大学の紹介をしている画面の説明の中に,この大学の「生徒数」という表現があったのを見た。この説明文を書いた人も,学生時代に使っていた言葉をそのまま使ったのであろう。
 学生たちの挨拶言葉も変化した。今では,学生たちは,挨拶するときには,朝でも,昼でも,夜でも,「おはよう」を使う。もちろん,これは,芸能界で,験を担いで,夜でも「おはようございます」と言う習慣が,テレビを通じて広まったのであろう。私は,学生たちに,就職活動で,午後に会社訪問をした時に,「おはようございます」と言えば,「こんな常識のないやつ」を思われて,即,不採用になるからと注意していたのであるが。学生たちは,卒業しても「おはようございます」を使っているのであろうか。仲間内で使うのはかまわないが,仕事上で使っていないであろうか。
 もう一つ,学生たちの言葉遣いで,不思議に思っていたことがある。いつ頃からか,学生たちから来るメールが,「お疲れ様です」で始まるようになったのである。一人二人ではなく,ほとんどの学生のメールが「お疲れ様です」で始まるのである。大学院生の甥に聞くと,多分,アルバイト先で上司に言っている言葉を大学の先生にも使っているのではないかということであった。文学部のある先生に,学生からのメールが「お疲れ様です」で始まる話をしたところ,その先生も同じ経験をされていて,その先生は,「おれはコンビニでアルバイトをしているのではない」と言っておられた。私も大学を定年退職してから3年が経つので,今の学生たちが,教員宛のメールを「お疲れ様です」で始めているのかどうかは知らない。
 語彙や表現が変化するのと同じく,文法も変化する。よく取り上げられるのは「ら抜き言葉」である。ほとんどの人が,「見られる」,「起きられる」ではなく,「見れる」,「起きれる」と言う。かつては,こういう言い方は,文法的に間違いであると言われていたが,今では,ほとんどの人が,「見れる」,「起きれる」と言う。マジョリティーの人が使うのであれば,もはや,間違いではない。1974年の国立国語研究所の調査では,「見れる」を容認する人は,東京で45.9%,大阪で55.6%で,「起きれる」を容認する人は,東京で30.3%,大阪で 40.9%であった。当時は,大部分の人が,「見れる」や「起きれる」は,間違った言い方であると思っていたのである。しかし,現在では,「見れる」,「起きれる」を容認する人の割合は,100%近いであろう。
 しかし,「ら抜き言葉」は,間違いであるという意識は,残っているようである。テレビを見ていると,画面の中の人は,「見れる」と言っているのに,画面の字幕では,「見られる」に訂正してある。どの局の放送でもそうしている。多分,放送局のマニュアルでは,「ら抜き言葉」は,使ってはいけないことになっているのであろう。(タレントの有吉弘行氏が,あるテレビ番組で,放送局がこのように訂正することを批判しているのを見たことがある。)私も,普段,話す時には「ら抜き言葉」を無意識に使っているのであろうが,文章を書く時には使わない。必ず,「見られる」とか「見ることができる」と書く。新聞記事や書物でも,「ら抜き言葉」を見ることはない。
 小学生も「ら抜き言葉」を使うであろうし,作文でも「ら抜き言葉」を使うであろう。(多分,小学生にとっては,「見られる」や「起きられる」が間違った言い方であろう。)そんな時に,指導する先生は,どうしているのであろうか。朱を入れて,「見れる」を「見られる」に訂正しているのであろうか。

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