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旧Twitter あの日の日記の供養

「ツイッター」が死んじゃった。今やこの書き出しは陳腐なものになっているはずだ、みんながこの文言をツイッター以外のプラットホームにつぶやいているに違いない。

私にとってツイッターはそれほど大切なものではなかったはずだが、忌々しい「APIの呼び出し限度を超えました」を何度も無意識に見るうちに、あらら私の生活のなかのツイッターがしめる比重は随分の大きさだったのだなと思ったりした。昨日の夜はそれでも楽しかった。情緒不安定(と勝手に言ったらちょっとごめんという気持ち)な高校時代の友達から二週間に1回くらいのペースで「今日通話しませんか…」というDMがくる。高校の時の人と繋がっている鍵アカウントなので、DMがくる相手は限られており、すぐにああはいはいできますよ、と返信できる。昨日はツイッター環境が不安定だったのでDMが普通に受信できてよかったなと思った。いいタイミングで来てくれたな、よかった私はまだ誰かとこのSNS上で繋がっているんだと思った。じっくりと彼のDMを読んでみる。「電話」じゃなくて「通話」と書いていることや、控えめな印象を受ける三点リーダーで締め括っているところ。らしさがすごい。彼の話の内容は「ツイッターが死ぬ。不安でたまらない」というのが大筋だった。私はこれまでぼんやり眺めていたTLがうんともすんとも行かなくて、みんながよくわからないなあと言っている状況が虚しくて、本当に終わりって感じがしたからもうどうでも良くなっていた。掃除もできたし。彼の話を聞いたり私の話をしたりして沈黙をお互いに破りつつ、通話をし始めてから1時間くらい経った。私はコンビニに行きたかったので、ごめんと言って通話を切った。最近甘いものが食べたすぎる。わざわざこの時間から外に出ようとするくらい。でも散歩することで画面上に執着しないで気分転換できるかも!という気持ちがまさっていた。この理由にしたら別にケーキを買って食べたって、素敵な日曜日の思い出ができちゃうだけだからねえ。外に出たら少し蒸し暑かったけど思ったより暑くはなかった。しかも結構人が歩いてる。気を良くした私は駅を挟んで反対側のコンビニ(徒歩10分もない!)にいくことにした。そしてDMを送った。「散歩なう。思ったより暑くなくて快適です。どうですか」「散歩行こうと思ってたところ!もう少しで出発するー」あ、よかった。思ったよりツイッターに執着してないじゃん、よかったよかった。明日は満月らしいということと適当なスタンプを送信して家に帰った。私はチーズケーキに加え冷凍のチョコケーキ、そして塩味を求めてからあげクンを買って食べた。友人もコンビニに行って帰宅したようだった。「今ケーキ食べながら本読んでるなう」「いいねこの後そうする」などと言い合ったあと、静かになったスマホを充電コードに繋げておいた。恐山さんの日記(本のやつ、あのキリンの)を読んだ。「散歩の散は意識を散らすこと、自分にとって散歩は景色が動くこと」みたいな感じでうんうんその通りだな、意識を適当に飛ばすことができたぞと嬉しくなった。本を読み進めて飽きたのでスマホを見ると時刻は9時を過ぎ10時近くになっていた。「ツイッター復活してるよ!」というメッセージが届いているのを見た。私はそれにすぐに返信するのをやめて絶対に今晩はもうツイッターを開かないぞという意思を強く持った。私が散歩という提案をして友人を外に連れ出してあげたというシナリオは私の妄想だ。こんなにケロッと機嫌が治るのか~い、なんだ心配しちゃったよ。ツイッターに、というよりいけすかない〇〇な資本家の手のひらで転がされていて心底うんざりした。まあでも私にとっては散歩ができてケーキも食べることができて、自意識による自分の確立ができるという事件は楽しい思い出となった。こんなことをつらつら全部Twitterに書いてたらキモすぎるので供養させてください。私の転生先は決まっていませんがこのまま輪廻から外れてもいいと思っています。キモ文体。


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