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『 灰皿 』

退屈だな、と思った。

換気扇から流れてくる焼肉の匂いに、そう思った。

左手の自動ドアはからは、店員の活気ある声が漏れ出ている。

高所からゆるやかに落下しているような気分だった。

塾が終わってから、焼肉屋の外のベンチに1人座っていた。

どうやら、今日、弟がソフトテニスで優勝したらしい。

僕はテニスがどういうものなのか分からないし、なんなら硬式と軟式のルールの違いも分からない。

ラケットも同じように見える。

弟はテニスが出来て、頭も良い。
対して僕は、運動は球技全般はだめだめ、頭はそこそこ。

親が、どっちを可愛がるかなんて自明だ。

だから、もう、羨ましいなんて感情になることも無かった。

今、この店の中に居る、いつ来るか分からない親と弟を待ちながら。

「…さむ」

昼間は30度近くだった気温が夜になるとこんなに肌寒い。

半袖で来たのが間違いだった。

僕は目一杯空気を吸い込む。

深い藍色をした夜空を見上げて、吸い込む。

この湿った空気の匂いを、僕は知っている。

夏も、もうすぐだ。

というか、弟のテニスの優勝祝いがこんな大雨の日なんて、可哀想で、笑える。

雨でジメジメと湿った空気に、僕の心はすっかり慣れはじめてしまっていた。

僕の隣には、灰皿が置かれている。

灰皿の上には、煙草が2本か3本、転がっていた。

なぜだか少しだけ、安心した。

雨粒が、目の前のビルの建設工事の鉄骨か何かに当たって、金属音っぽい雨音を出している。

先程目の前に止まっていた車も、楽しそうに店を出てきた人達が乗り込んで行ってしまった。

店の中は騒がしくて、どうにも楽しそうなのに、それに溶け込めない自分が惨めになる。

このベンチと店の、数メートル数センチが違う領域にある気がした。

道を行く人も、家族や友人、男女のペアも、楽しそうに笑っていた。

はぁ、と溜息を吐く。

なんか、もう疲れた。

退屈だな、そう、思った。

雨粒を見つめながら1人ぼーっとしていると、ウィーンという物音と共にドアの開く音がした。


「うわぁ、雨ぇ…」


煙草の箱を持ちながら、女性が、出てきた。

顔は見えなかったけれど、身長の高い、いかにも上品で、綺麗な20代くらいの女性だった。

黒い長ズボンと深い緑のノンスリーブが、スタイルの良さを際立たせている。

一瞬気を取られ、慌てて目を離す。

また、空を見上げる。


「さむー」


彼女は細い両腕を寒そうに擦りながら、煙草を1本取り出して、僕の前を横切った。

灰皿を隔てて1番遠い場所に座って、ライターで火をつける。

その何気ない一連の動作ですら、視界の端で見ているのが勿体なく思えた。

この女性も、飲み会やらなんやらで来た人なのだろう。

そう思うと、彼女がなんだか眩しく見えた。

煙は、雨と混ざって、吐き出すと直ぐに消えてゆく。

煙草の匂いが、辺りには充満していた。

僕も、この煙と一緒に、消えられれば、いいのに。

煙の白は藍色と薄ら混ざって少しだけキラキラしていた。


「あ、ごめんね、こんなとこで煙草吸っちゃって」


右を向くと、女性はこちらを向いていた。

さっきは見えなかった顔が、ハッキリと見えて、ドキッとした。

美しい、という言葉が似合う。スッキリした顔のパーツは、どこぞのモデルかと言われても信じられる程だった。

驚いて後ろを確認する。

けれど、誰も居なかった。


「あ、え、僕ですか?」

「うんうん、煙、だいじょぶ?」

「あ、僕は全然…。煙草吸えるとこに座ってるの僕なんで……」

「そっか」


何か考え込むように、伏せ目がちに、右手の1本を見る。

煙を吸って、吐く。

その動きが、クラっとくるくらい、大人っぽい仕草だった。


「みんな死んじゃえって目、してるね。」


突然の一言に、声が、出なかった。

全て、見透かされている気がしたから。


「ふふ、ごめん。」と謝ったあと、彼女は煙草を下げて言う。「あれ、外しちゃった?」


女性は、面白そうに笑う。

その笑顔に、ドキッとした。


「...吸う?」

「いや未成年なんで」

「はは、そっかぁ。君、面白いね、終わってて。」

「ありがとう…ございます。……え?いい意味でですよね?」

「んーん、悪い意味」


無邪気に微笑んで、その笑みに時間を奪われた。

彼女はそれからまた煙草を口に運んだ。


「何してるの?」

「えっと…家族を待って、ます…」

「ふぅん、もうすぐで着くのかな…?」

「いやぁ。でもまだだと思います」

「ありゃま、そりゃあ、暇だね」

「はい……」


慣れた手つきで灰皿に煙草をジリジリと押し付けて、力ない声を出しながら火は消された。


「疲れるよねぇ」

「…そうですね」

「あー、ふふ、わかってくれるんだ。」

「……まぁ、はい。」

「君に言うのもなんだけど、わたしこういうガヤガヤしなくちゃいけないとこ、ちょっと苦手でさ」


彼女は耳に髪を掛けながら言う。

淋しそうな、声のタッチだった。


「だから、逃げてきちゃった。」

「…そうなんですね」

「うん、そぉなの」


そう言って彼女は笑った。

何かを諦めたような口ぶりだった。


「いーっぱい遊んでさ、恋してさ、頑張ってさ。うーん、頑張ってるんだけどなぁ……」


独り言のように、彼女は続ける。


「あーあー。だーめだなぁ…」

「ほんと、みんな死んじゃえばいいのにね。」


気づくのが遅かった。胸が高鳴る。

僕はどうやら、彼女に見惚れているらしかった。

だけど、彼女と僕は住む世界が根本的に違うんだろう。そう思うと、もう、何も言えなかった。

多分、入れ物は違えど、彼女も僕と入っている物は同じなんだ。

無理して適応して。した気になって。人と関わって、苦しくなって。考え込んで。また苦しくなって。

もう、かける言葉が無かった。

頑張って下さいとか、もし掛けられたのが僕なら、うるせえよ、と思うだろうから。


「よいしょ」聞こえるか聞こえないかくらいの小さい声で言いながら彼女は腰を上げる。
耳に掛かった髪がするする、と落ちた。


「君、こんな大人には、なっちゃいけないよ」


その理由を、訊ねていい訳がなかった。

思いつきの言葉を、僕は吐く。慰めじゃない、同情じゃない。これは、共感だ。


「終わってますね」


彼女は最初、少し困ったような顔を見せた。けれどすぐに気がついたみたいで、眉毛を八の字にさせた。


「そう、だね。ふふふ、ほんと、終わってんね」


彼女の瞳が、潤んでいた。

喉が、渇いた。言葉が一滴も出なかった。

そんな僕を他所に、彼女はやっぱり寂しそうに笑う。

返事を返せないでいると、もう既に店に戻っていた。

憂鬱。

今の気持ちを表すにはそんな熟語しか無かった。

揺れるピアスのイメージが、忘れられない。


雨音が、止まない。



都合良く、僕を察したように、雨は降る。




退屈だな、と思った。




夏を告げる、梅雨の雨に、そう思った。




隣のぽつんと置かれた灰皿を見る。





なぜだか今度は、少しだけ、悲しく、なった。






終わってんな。そう、思った。






『 灰皿 』

おしまい

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