なぜ限界ADHD商社マンになったのか①~幼少期編

こんにちは。限界ADHD商社マンJです。
記事を開いていただき、ありがとうございます。

今回から自己紹介も兼ねて、なぜ限界ADHD商社マンになったのか、を幼少期から順に綴っていきます。単なる経験の棚卸しの要素を多分に含みますので、流し読み程度でご覧いただけると幸いです。

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1. ~3歳:典型的な地方の公務員家庭~幼少期の様子:
私は都内在住だが、18歳になるまでは九州で育った。大学進学を機に地元を去って早10年経つ。
公務員同士の父母の間に生まれた私は、3人兄妹の次男坊として、3歳くらいまではごく普通の、比較的裕福で幸福そうな家庭で育った。公務員夫婦というのは、特に地方では有数のパワーカップルに位置づけられるわけだが、それを正しく理解したのは大学に入ってからだ。
同学年に比べて精神面の発達が遅かった私は、保育園では周囲の同学年たちに身の回りの世話をしてもらっていたらしい。この頃のエピソードとしては、床を歩くアリを掴んで食べたとか、黒のサインペンを口に突っ込んでお歯黒にしたとか、転んでうまく手を付けずに左腕を骨折したとかいう、何ともドンクサイものばかりだ。

2. ~5歳:両親の離婚:
家庭に大きな変化が生じたのは4歳になる頃だ。父親が様々な理由をつけて家を突然去ってしまった。理由や背景は長くなるので別記事で書くが、客観的な見方をしても随分と自己都合的な理由だなぁと今でも思う。ともかく母は、兄妹3人を、典型的な言い方をすれば女手一つで育てることになった。
それからというもの、私たち家族の暮らしぶりは外形的には暗転…することは特に無かった。経済的には公務員である母の収入もあるし、父親からの養育費も問題なく振り込まれていたし、近所には子供の面倒を見られる祖父母も住んでいたからだ。
他方、内面的には、少なくとも母はこの一件を機に不安定になった。自己都合で出て行ったにもかかわらず、父親は長兄の親権を要求して離婚調停になっていた。訴訟事というのは、どれだけ有利な立場だとしても精神を消耗するプロセスだと思う。
4~5歳という多感な時期に家庭が上記のような状況であったからか、この時期に私の愛着は余り安定しなかったと思われる。それに加えて、私は年齢の近い兄と何かと比べられることに対して、強すぎる劣等感を感じ続けていた。何かの児童会で兄弟の年長者が貰えるというお菓子セットを、悔しくて泣き喚き、最終的には根負けされて自分も受け取ったことも記憶にある。

劣等感は、泣き喚いてお菓子を貰おうとする程度であれば健全とも言える。強すぎる劣等感は、対象に追いつき、上回ろうという気力をすら失わせる諸刃の剣である。一言で言えば、私の幼少期~青年期は、この諸刃の剣にもがき、不安定な愛着を根源とする承認欲求に支配されたモンスターの物語だ。

次回は、劣等感と承認欲求で満たされた少年期がどのようなものであったか綴っていこうと思う。
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最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

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