オルタナティブロックの歴史



1.ニューウェイブとは何だったのか

1975年にオイルショックが起きると若者たちは車離れをし始めた。野外フェスや車デートや映画館に訪れなくなり、燃費の良い日本車に買い替える者も居た。フェスではなく近所のディスコやクラブに通うようになり、映画館ではなくテレビを鑑賞する時間を増やしていった。
ポリ塩化ビニールで出来ているレコード盤は石油価格の影響を受けて供給不足に陥り、音楽業界は変革を余儀なくされた。
映画業界は制作が難航し続けて収益が悪化し、根本的な組織改革に乗り出した。
日本車が好評な一方で、アメリカやイギリスの地方にある工業都市たちは失業率が上がり始めていった。
中東で始まった戦争と石油機構の談合は留まる所を知らず、石油価格やガソリン価格はなかなか値下がりしなかった。これは現在の私たちがロシアによるウクライナ侵略戦争や、荒れゆく中東の情勢で石油価格高騰を感じている現象になぞらえれば分かりやすいだろう

そんな絶望的な1975年を乗り越えたアメリカは、1976年という革命の時代を迎える事になる。様々な新しい音楽たちが登場し始めた

ディスコに通うお金が無い者達が開催するブロックパーティーから生まれたヒップホップ。
ガレージロックとサーフロックと初期のハードロックに、バブルガムポップとフィルスペクターへの愛をブレンドさせることで誕生したパンクロック。
プログレやハードロックの常識に囚われないスタジアムロック。
ラズベリーズが発明したと言われるポップロック/パワーポップ。
映画「サタデーナイトフィーバー」が巻き起こした第2次ディスコブーム。
クラウトロックの名で馴染んでいるドイツプログレ勢を代表する、クラフトワークがきっかけとなったテクノポップ/シンセポップブーム。
ブライアン・イーノなどが流行させたアンビエントに代表される環境音楽たち。
ストレイキャッツが流行らせるネオロカビリー。
エレクトロジャズを縦横無尽に発展させたフュージョン。
ハードコアパンクにヘヴィメタル(NWOBHM)
ゴシックロック(ポジティブパンク)にジャングルポップやネオサイケ。
既存のプログレ勢はポンプロックへと進化していく。
パンクロックの一翼を担ったバンド達は、クラウトロックやカンタベリーロックやピンク・フロイドなどに影響を受けてポスト・パンクへと進化していった。
パブロック系のバンドたちは1970年頃には存在していたが、彼らの人気に火がついたのはこの時代である。
そしてディスコは1983年頃にハウスへと進化を始める

この激動の音楽業界の中で、70年代前半にアメリカを席巻したカントリーブームは求心力を失っていった。アメリカでは音楽専門のMTVというケーブルテレビが爆発的に普及し始めており、イギリスでは映画業界で仕事を失ったスタッフ達が、ミュージックビデオを製作する仕事に転職し始めた

加えて石油危機は出版業界にも多大な影響を及ぼすことになる。世間の本や小説への接し方に変化が現れ始めたのだ。80年代に入ると世界中で雑誌ブームが勃発し、音楽雑誌も売り上げを伸ばていった。結果として音楽評論家や音楽雑誌編集者の発信力が向上し、雑誌で音楽を探す若者たちが増加の一途を辿る事になる

また、1960年代には1億円以上の価値があったと言われるシンセサイザーも、70年代には低価格化が進んでいった。70年代後半には500万円以下の機種が登場し、80年代には50万円を切る機種が発売された。凄まじい速度で普及し続けたシンセサイザーは時代の主役であり象徴である

この1976年から1986年くらいまでの期間を私はニューウェイヴと呼ぶべき時代/世代だと考えている。長めに見積もっても75年から88年くらいまでだろう。この期間のバンド達はざっくりニューウェイヴと呼ばれているが、展開するメロディの偏向性にはハッキリと名前が付けられているのが特徴的だ

2.バンドを始める男たち(ベビーブームと失業)

ミュージシャンの影響力は決して母国の売上だけでは測れないものがある。パンクロックはニューウェイヴ世代の中では必ずしも売上で目立っていたわけではない。今日でも伝説的として語られているグループでさえ埋もれていた。例えばラモーンズは米国チャートのトップ100に入ったことは殆ど無いが、イギリスの若者への影響力は絶大であった。これは彼らが米国でのTV出演が少なかった事や、積極的な海外ライブ遠征を行っていた事に起因している。他にもテレビジョンなどが母国では売れなかったグルーヴと言えるだろう

70年代半ばのニューヨークには、ロックという音楽と実験的に向き合っているグループが多かった。この界隈にニューヨークドールズというグループがおり、彼らの過激すぎるパフォーマンスは各地のマニアやミュージシャンの間で話題となっていた。彼らに影響を受けたラモーンズやザ・ダムドが1976年頃から一斉にデビューし始める。彼らは作曲や編曲の素養が豊かなバンドマンであった。パンクロックは不良の音楽というイメージを持たれているジャンルであるが、ロックの作曲/編曲と闘っていたメロディインテリな面を強く持ったグループが多かった。実験的なサウンド志向であった彼らの楽曲には必ずしも同様のメロディ性が現れない点には注意が必要だ

ところがパンクブームは2年程度であっという間に終わってしまった。他の新時代的なサウンドやジャンルに対抗する形で、イギリスのパンクバンド達は実験的なサウンド志向を加速させ、ニューヨーク勢と再び合流していった。こうして英国パンクバンド達はポストパンクと呼ばれるニューウェイヴ時代の大きな一翼を担うことになり、今日ではブロンディやトーキング・ヘッズといったニューヨーク勢と並んで語られることが多い

一方で77年頃の作風を突き詰め続けたラモーンズは、どちらかというと浮いた存在になっていったかもしれない。しかし長い時間が経つにつれて、却ってその特色がカリスマ性に磨きをかけていくことになる。結果として彼らは唯一無二の存在になった(瞬く間に解散したピストルズも同様である)

この時代の中で、ロック業界に起きた最も素晴らしい出来事は
「ニューウェイヴ世代に感化されてバンドを始めた男たちが沢山居た事」
だろう。
俺もバンドやってみよう!と思った者がいっぱい居たのだ

当たり前だが世の中の男は大半が不良ではない。都会やテレビの不良バンドに憧れていた田舎の純朴な少年たちは純然たるパンクバンドには成れなかった。ポストパンクが不良性を捨て去って行ったのは後続のバンド達にとってかなり幸運だったと言える(なお真正の不良たちはハードコアパンクへと突き進んだ)

またニューヨークドールズなどの影響下にあったラモーンズ/ピストルズ/ダムドや、ザ・ジャムのようなネオモッズ勢たちの演奏は、素人目にも何をやっているのか想像しやすく、「俺もバンドやってみよう!」と思わせるものだっただろう


少なくともジミ・ヘンドリックスなどを見てバンドを始めようとはあまり思えないだろう。私は大好きだが、やはり凄すぎて何をやっているのか理解が追い付かないし、真似もしづらいだろう。
人々の直感に直接訴えるようなニューウェイヴ時代の音楽は、とても良い起爆剤に成りえたのだ、と私は思う


そして当時のアメリカとイギリスの若者たちはベビーブームの影響で人口が非常に多く、そして失業率が高かった。仕事にありつけない彼らがミュージシャンを夢見る事は決して不思議な事ではないだろう。
音楽業界には当時どこか夢や華やかさがあり、友達と音楽をやることは日々の悩みを少し遠ざけ、心に潤いをもたらしただろう。
結果として同級生と組んだグループが80年代には大量に出現する事になる。これは70年代には業界のスターが結集したようなスーパーグループが多かった事と、かなり対照的である

一応参考にイギリスとアメリカの失業率を貼っておく

ベビーブームの参考。
アメリカとイギリスは60年代生まれが非常に多い

豊富な若者人口に支えられていた売上豊かなニューウェイヴ世代。そしてニューウェイヴバンドで育った沢山の若者達がバンドを組む80年代がやってくる。80年代に大量に現れる事になった地方出身の同級生バンド群たちこそが、オルタナティブロックの潮流となるのである。彼らの多くは失業者だった

3.オルタナティブロックの登場

社会に増え行く失業者と隆盛を誇る音楽業界。煌びやかなTV番組の虚構と鬱屈にまみれた現実。流行する口当たりのまろやかな甘い歌詞やサウンドに、60年代生まれの若者たちは否定的な眼差しを向けるようになって行った

81年ごろに活動していた最初期のオルタナティブロックバンドの幾人かはメジャー会社と契約し、アイドルバンドとして売り出されたが、コマーシャルテイスト極まる音楽業界やテレビ業界の風習に適合できずにメジャーシーンを引退していった。アイドル的な立ち振る舞いを強要されることに耐え切れなかったのだ

82年ごろ、アメリカの音楽市場はイギリスのバンドに蹂躙されつくしてしまう。レコード売上の30%がイギリス人グループのものだった。これをアメリカの評論家は第2次ブリティッシュインヴェイジョンと名付け、危機感をあおった。両国の首相/大統領であったサッチャーやレーガンは、新自由主義の名のもとに様々な改革を行い、失業率は驚異の10%を突破する。地方都市の工場は次々と閉鎖されていった。このような状況下でアメリカ人はイギリスからやってくる音楽に、イギリス人はアメリカへ輸出するために作ったかのような音楽に、不満を募らせていった。歌われる世界像が自分たちの生活模様と一切リンクせず、彼らは全く共感できなかった

若者たちはヒーローを求めていた。自分たちの住む街から生まれた音楽を求め、地元のライブハウスに通い、そこで歌う地元のグループのレコードを愛した。パンクブームの中で登場した数々のインディーズ会社はこの機を逃さなかった。インディーズ作品がとうとうヒットチャートに現れるほどの人気を獲得し始める

1983年、イギリスでザ・スミスが、アメリカでR.E.M.が登場してオルタナティブロック時代が動き出す

この2組の音楽性の違いが、後のイギリスとアメリカの違いとなって表れてくる点に注目すると面白いかもしれない

4.ジャンルの融解と音楽市場の地方化

ニューウェイブはジャンルの細分化を進めた時代だった。一方、オルタナティブロックはジャンルの融解/統合を進めていく事になる。ミュージシャンは音楽の垣根に囚われずに様々な技法を取り入れる。その結果としてメロディ技法では厳密に区分しづらい、とても抽象的でフワフワした定義という印象を、オルタナティブロックは与えてしまう事が多い

勿論、オルタナティブロックには音楽的な特徴がきちんと存在する。いくつか書き出しておこう。
①アルペジオ奏法の再評価
②ステージ衣装を着ない
③社会批判や否定的な言説。抑うつ的で暗く、後ろ向きな歌詞。そして散文詩的な技法の躍進
④ベースラインの開拓、及び重要性の向上。そしてドラミングの重要性の向上
⑤エフェクター産業の隆盛に触発されて発生する、ギターサウンドの発展
⑥スタジアムではなく小規模なクラブ向けを意識した曲展開
⑦CDが持つノイズレスな特徴を逆手にとった音作り
⑧アルバム主義
⑨アートロック世代(1965~69)の再評価、及びプログレの再評価
⑩ヒットするかどうかを重視しない姿勢
⑪ブルース進行の衰退
⑫メンバーの写真が使われていないレコードジャケットの採用。及びイラストジャケットの衰退
⑬ギターリフの開拓。及びリズムギターの消失
などだ。
特に②と⑫は見れば分かるので非常に判断しやすい。
大まかに纏めると、メロディ理論の開拓と65年以降のロックに対する再評価、という点が特徴となる

①アルペジオ奏法の再評価
1965年に登場したザ・バーズの影響を受けたギタリストがとにかく多い

かつて彼らはロックの世界にアルペジオ奏法の大旋風を巻き起こした。おおよそ1965年から69年までだ。オルタナティブロックを牽引したミュージシャン達は60年代生まれが多いため、両親の影響でバーズのファンが多いのだろう。ビートルズやヴェルヴェット・アンダーグラウンドからもリスペクトを受けた伝説のグループだ。ザ・スミスとR.E.M.のメンバーが最も敬愛するギタリストに度々彼らを挙げるのも有名だ。
ちなみに、アルペジオ奏法は英語で「Alternative Chord」である

②ステージ衣装を着ない
ニューウェイブ世代までのミュージシャンは大抵がステージ衣装を着ていた。オルタナティブバンドは私服でステージに上がるのだ

③社会批判や否定的な言説。抑うつ的で暗く、後ろ向きな歌詞。そして散文詩的な技法の躍進
オルタナティブロック世代は社会批判をしがちだ。これは社会背景を汲んであげれば仕方のない事だと思う。もしくは60年代のフラワームーブメントに影響を受けているグループが多いため、社会批判をする歌詞になるのかも知れない。
散文詩的な技法の流行も60年代の影響が強い。主にアートロックが流行らせた技法であり、この流行はビートルズやヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ビーチボーイズの「ペットサウンズ」などにまで遡ることが出来る

④ベースラインの開拓、及び重要性の向上。そしてドラミングの重要性の向上
スタジアムロックやヘヴィメタル、そしてディスコミュージックにおいてベーシストは完全な脇役だった。
当時のロック売上はトラックドライバーや運転手などによって支えられており、ベース音は走行音によって書き消えてしまうため重要性が薄かった。当時の車両が有する遮音性の低さやスピーカーの性能、道路のアスファルトの粗さなどに問題があったのだ。
スタジアムロックやヘヴィメタルにおいて、ベースは音楽の後方でひたすら「ブァァァァン」という鈍い音を出して音圧を支える役目に徹する事が多い。そしてディスコはリズム隊がメロディ開拓をする必要性に乏しいジャンルだった。
オルタナティブロックはベーシストやドラマー達の反逆といっても過言ではない

3ピース編成バンドの台頭により、ベースラインの重要性は飛躍的に向上した

ドラムパターンもこの時代に沢山開拓されていく。最大の功労者はストーン・ローゼズだと言われている

もう1組名前を挙げる必要があるだろう。ブラストビート奏法が大流行するきっかけを作ったナパーム・デスだ

⑤エフェクター産業の隆盛に触発されて発生したギターサウンドの発展
シンセサイザーと同様に、エフェクターの性能も種類も大幅に増えた。需要の増加と共に低価格化も進んだようだ。日本産のエフェクターも世界で活躍し始める。
特にペダルを踏んでエフェクトを切り替える技巧が人気を博した。
イントロ・Aメロ・サビでギターサウンドを切り替える、といった技法が登場する。また、こういった技巧がライブで再現可能になったという点もある

⑥スタジアムではなく小規模なクラブ向けを意識した曲展開
スタジアムを盛り上げる楽曲の展開と、クラブを盛り上げる曲調は異なる。観客の皆で合唱したり、手拍子をしたりといったノリはパンク育ちのオルタナバンドには忌避されたのだ。スタジアムロックと比べて短い曲が多く、BPMもかなり早い物が混じっている

⑦CDが持つノイズレスな特徴を逆手にとった音作り
当時のレコードはブツブツとノイズが入りがちだった。CDはクリアでノイズが入らない。これを逆手にとってノイズまみれのギターエフェクトを使用するバンドが登場する。この点は本当に画期的であり、時代の変化を感じられるだろう

⑧アルバム主義
⑨アートロック世代(1965~69)の再評価、及びプログレの再評価
1965年頃から流行し始めた、芸術性を重視する音楽作りに没頭したロックバンド達は、アートロックと呼ばれている。アルバム1枚を1つの芸術作品と捉える、その姿勢に感化されたグループはオルタナティブロックに多い。
また、アメリカのグループはプログレッシブロックにもかなり影響を受けている。ピンク・フロイドやクラウトロックなどに感化されているグループが多い。
これはソニック・ユースなどのニューヨーク勢に特に顕著である。彼らはまさにポストパンクの続き、といった印象を与えるかも知れない

⑩ヒットするかどうかを重視しない姿勢
これが1番大事だ。消費者が良いと言う音楽ではなく、ミュージシャン本人が良いと心の底から思える音楽を探求する、これがオルタナティブロックにおける最大の重要な精神である、と考えられている。
留意すべき点として、当時の米英はとにかく若年人口が多かった。そのためマニアックな音楽でも小規模なマーケットを築き上げ、評論家の目に留まる程の売上を放つ事は十分可能だったという時代背景には気を付けよう。
また、音楽雑誌をよく読みこんでいるような、評論家の論評やミュージシャンの哲学に寄り添うリスナーも豊富だったという点もある

結果としてマニアックな音楽が地方的な売り上げを幾らか出しており、メジャーな音楽市場とは異なる、オルタナティブ(支流/傍流)な音楽市場が至る所に存在すると知らしめていく。評論家や耳の肥えた大学生達によって積極的に拡散され、1989年頃には国家全体を巻き込む大きな流れとなっていった

⑪ブルース進行の衰退
ロックンロールにおけるギターの存在を、ブルースを起点にして解釈しているバンドがかつては多かった。この束縛をオルタナティブロック世代は脱却していく

⑫メンバーの写真が使われていないレコードジャケット
見ればわかるのだがメンバーの顔が写らないジャケットを好むバンドが多い。そしてイラストではなく写真を用いる事が多い。
ニューウェイブ世代はイラストを好んでいる印象がある。これはどちらかというと音楽会社の好みだったのだろう

⑬ギターリフの開拓。及びリズムギターの消失
⑤⑪と同じくギターも様々な開拓がなされていった。インダストリアル系/エクスペリメンタル系のバンドを除き、リフメイキングに強いバンドが人気を獲得していった。
これはシンセサイザーがニューウェイブ世代の象徴的存在であった事に対する反抗だろう。
また、楽器を持たないボーカルが多い事も特徴である。
ギター・ベース・ドラム・ボーカルの変則4ピース編成によって、リズムギターを採用せず、リードギターのみのメロディ構成を取る事が有る

オルタナティブロックの特徴はこんなところだろう。これらの特徴は多くの場合、ミュージシャン本人が望んだというよりは、予算の都合や時代背景の影響が強いと私は思う


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イギリスは小さい国のため、地方的なヒット作がチャートに登場することはアメリカよりもかなり早かったと言える。中心地は主にグラスゴーとマンチェスターだった。
例えばマンチェスターには「ハシエンダ」というジョイ・ディビジョンのメンバーと、ファクトリーレコードというインディーズ会社が共に設立したクラブがあった。こういったクラブがオルタナティブロックの中心地になっていった

1985年にジーザス&メリー・チェインがデビューするとオルタナティブロックの奔流が世界に轟き始めた

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話が少しそれるが、当時のイギリス政府(サッチャー政権)が
「There is no Alternative」
(他に道は無い)
という名言を残していた事もここに記しておく
https://en.wikipedia.org/wiki/There_is_no_alternative
このスローガンは猛反発をくらい、若者からは国家の仇敵のように見られることもしばしばだった。全失業者の敵と見做されただろう。当時の若者は資本主義に絶望し、左翼的な反資本主義思想を持つ者も多かった。インディーズ会社を押し上げた当時の音楽業界は、こういった社会情勢と密接に絡んでいる。オルタナティブロックブームは左翼的な特質を抱えていた節があったのだ

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翻って、アメリカは広大な国家である。ネット世代を生きる私達には理解しづらいが、当時のアメリカは音楽市場がかなり小規模な区画に区切られていた。それは州ごとのラジオ放送局や、レコードショップなどを軸に、音楽産業が成り立っていた為である

音楽雑誌の売上が増えるにつれて、その州ごとの溝は少しづつ埋まっていった。アメリカのオルタナティブロックブームに火をつけるのは評論家の後押しがかなり貢献していた。イギリスよりも少し出遅れてしまった印象を与えるかも知れない

1988年には大絶賛される作品が大量に登場し、まだブームとは呼べないものの、新時代の音楽性が到来した事を告げるような、そんなバンドの登場に耳の早い若者たちは熱狂していたようだ。
ソニック・ユース、ゼイ・マイト・ビー・ジャイアンツ、サウンドガーデン、ハスカー・ドゥ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなどなど、後々までその名が響き渡るカリスマたちを論壇に押し上げていった

5.オルタナティブロックブームの到来

1991年、R.E.M.によって新時代の幕が切って落とされた

米英でアルバムチャート1位にまで上り詰めたこのアルバムの登場によって、あらゆる音楽会社は彼らをロック市場の支流とは見做さなくなった。
そして同年9月、ニルヴァーナが音楽市場を席巻した事によってオルタナティブロックブームが到来した

ニルヴァーナの台頭によって、彼らと同じシアトルのバンドが持つサウンド性は大幅に躍進し、オルタナティブロックへのイメージを、恒久的に決定する要因を作ってしまったと言っても過言では無い。
シアトルのグループを中心として、アメリカ中のオルタナティブバンドがR.E.M.とニルヴァーナに続くことになる。メジャー会社はこの機を見逃さなかった。数多くのオルタナティブバンドがメジャーデビューをし始める事となる

しかし、なぜ大衆の好みに媚びなかったバンド達が、突如として音楽市場の舵輪を握るに至ったのだろうか、と疑問に思う人も居るだろう。
ここで再びアメリカ合衆国のベビーブームが関係してくる

https://ja.wikipedia.org/wiki/ベビーブーム#/media/ファイル:US_Birth_Rates.svg

ニューウェイブを支えたのは1960年前後に生まれたベビーブーム世代の国民達だった。
統計学的に、人は25歳を超えると音楽を買う量が急激に減り始める事が分かっている。ベビーブーム世代が25歳を超える事により、音楽業界が大転換を迎えるのは避けられない運命だったと言える。
そしてCDという新たなデバイスの登場が、古い世代の音楽離れを加速させていった。1987年、レコードはCDの売上を下回り始めたのだ。
どこの国でも、いつの時代でも変わらない。社会に世代交代が起きたのである

ニルヴァーナと同じワシントン州のバンドたち、
サウンドガーデン
アリス・イン・チェインズ
マッド・ハニー
パール・ジャム
などや、ストーン・テンプル・パイロッツなどのグループは、「グランジ」という新たなジャンル名を音楽業界から与えられた

オルタナティブロックには様々な作風のグループが放り込まれていたが、ジャンルに対する後年のイメージは、ヒット作を連発した1991年以後のバンド達によって作られている。
中には真っ先にグランジを想像する人も居るだろう。
そのイメージはもしかしたら払拭しておいた方が良いかも知れない

以下にオルタナティブロックの主要な派閥を記しておこうと思う。彼らの多くはヒットとは無縁であった

6.主要なオルタナティブロックの音楽性を紹介(UKオルタナ第1世代)

①C86系
1986年に発売された「C86」というコンピレーションに収録されたバンド群、及び彼らに類似する音楽性を持ったバンド達の総称である。彼らの登場の発端はザ・スミスとジーザス&メリー・チェインの影響が大きい。そしてビートルズやバーズにも影響を受けている。
初期のプライマル・スクリームや、初期のマイ・ブラッディ・バレンタインなども該当する

歪ませたノイジーなギターサウンドとアルペジオ。やけに早いBPMと、当時は珍しいドラムパターンの採用が目立つ。ライブでは更に加速して演奏される事も多い。
1993年頃にインディーズ会社の倒産が相次ぐことによって、彼らの作風はイギリスから消えて行った

②マッドチェスター
マンチェスターに居たバンド達の作風。UKオルタナの中では比較的ヒット作が多い。ニュー・オーダーやバーズ、ビートルズに影響を受けている事の他に、オルガンを演奏するバンドが多いのも特徴.。
ギターはノイズが抑え気味で、水中を泳ぐようなエフェクトや、秋の木漏れ日を思わせるような音作りを好むバンドが多い。
最も有名なのはストーン・ローゼズである。
なお、初期のブラーもマッドチェスターに該当すると考えられている

③シューゲイザー
ジャンル名の発端はムースというバンドへの論評だと考えられている。
Shoe(靴)をGaze(見つめる)でシューゲイザー。ミュージシャンが俯いている事に由来している。
エフェクターのリバーブやフィードバックノイズを最大限に活用し、ノイズの海を泳ぐような荒々しいサウンドメイキングも有れば、霧に覆われた夜空を揺蕩うような澄んだサウンドメイキングも有り、一筋縄では解釈しづらい。
流行期間は1991年前後の僅か2年弱であり、ブームは瞬く間に終わっているが、後年のジャンル知名度が非常に高い。人気バンドは女性ボーカルが多い事も特徴である。
また、ジャケットには何が写っているのか判別しづらい写真を採用しがち、非常にシンプルなバンド名を採用する、などの不思議な特徴がある

④エーテル
UKオルタナの最初期を象徴するジャンル。1981年頃から台頭し始めた。
このジャンルはシューゲイザーやゴシックロック・ネオサイケなどに統合される形で霧散していき、今日ではこの括りが使われる事は殆ど無い。
エーテルには黒ミサを彷彿とさせる異教徒的な雰囲気や、民族音楽的な空気を纏ったメロディラインを好むグループが多い。また、伝統的なロックンロールから遠くかけ離れたドラミングパターンを使用する

上に転載した3バンドはエーテル3大バンドと呼ばれる非常に重要なグループだ

⑤ゴシックロック・ネオサイケなどのメジャーバンド
ニューウェイブ/ポストパンクを代表するジャンルであったゴシックロックやネオサイケのサウンドは、1984年頃から少しづつオルタナティブなメロディ構築に挑戦/対抗し始め、シーンを間接的に強く牽引していった。
彼らの多くはメジャーレーベルやその子会社と契約していたため、オルタナティブロックの中ではかなり大衆性が前面に出ているのが特徴的だ。
メジャーグループの作風が変遷していった理由は主に、上記した4ジャンルなどからの触発や対抗意識に由来している、と私は考えている。
なおインディーロックと呼ぶ場合は、彼らメジャーバンドは含まれない点に注意して欲しい。
他にメジャーバンドの特徴としては歌詞に社会批判が登場しないという点が挙げられるらしいのだが、私は英語が分からないので何とも言えない(申し訳ない)

私は上記の5系統と地続きの音楽性を保有するグループ達を、UKオルタナティブロック第1世代(1983~1993くらい)のほぼ全容だと解釈している。
もちろん違う解釈を持つ方も多いだろう

スラッシュメタルなどのエクストリームメタル系や、ハードコア界隈、インダストリアルやエクスペリメンタルと称されたグループ達は含めないのか、と問う方もいるだろう。
彼らもほぼ同じ時期に音楽市場の支流/傍流だったからだ。
しかし、後年のアメリカにおけるメタルコア界隈の存在感と、音楽的特質の持続性を鑑みるに、スラッシュメタルやハードコアは十分主流音楽の1つと呼べる域に立ち続けている。
インダストリアル/エクスペリメンタルなどといった音楽も、環境音楽やアンビエント、エレベーターミュージック、現在の実験音楽や映画音楽などにきちんと受け継がれており、市場規模はあまり変わらないかも知れないが、むしろ活躍の場は当時よりも広がっている節がある

一方で、C86系・シューゲイザーなどが展開していたアプローチや技法は、大衆性を多めに保有しておりながらも活躍の場を完全に失っており、今日の米英メジャーアーティストには殆ど見受けられない。完全に音楽業界の支流と化してしまっている。秘められたポテンシャルの割には存在が沈み過ぎている。よって再評価が必要だと私は考えているわけだ

(おまけ)
⑥ネオ・アコースティック
日本のみでの呼称。海外ではNeo-Acousticと言ってもまず通じないので注意しよう。
80年代にアコースティックギターを活用するイギリスバンドが多かった事に由来している。
アコギ以外だとトランペットなどがよく使われていた。
このジャンルをオルタナティブロックに入れている日本人はあまり見た事が無い(英国ではオルタナティブロックに括られている事がある)
また、アノラックサウンドと呼ばれる事もあるがこちらはグラスゴーのバンドに対してのみ使う

⑥インディーポップ
1982年にデビューしたトリクシーズ・ビッグ・レッド・モーターバイクがインディーポップを発明したバンドだと考えられている(諸説あり)
広義のオルタナティブロックにはインディーポップが含まれる事もあるが、日本ではあまり含めない解釈をされている


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1992年にイギリス経済が崩壊した

翌年までには数多くのインディーズ音楽会社が倒産し、イギリスのオルタナティブロックは低迷した。メジャー会社に買収されて子会社化するといった事実上の消滅を迎えた会社も多い。
80年代を通じてイギリスの地方から都会へと、仕事を求めて流出する若者は多かったが、この頃には更に人口流出が甚だしくなった

1988年には既にイギリスの首都、ロンドンの経済は崩壊しつつあった。
金利が変更されてバブル崩壊を引き起こしており、地方との失業率格差も消失していた。
しかし91年には景気が再び上向いてきたところであった。社会がそんな風に希望を持ち始めた矢先に、ポンド危機は襲ってきたのである

そんな再びの大不況下で、スウェードというバンドが1993年2月に「アニマル・ナイトレート」という曲を発売する

この曲の登場によってブリットポップブームが始まる。
膨れ上がったロンドンの若年人口は、ロンドンから新たなスターが出る事を後押しした。
イギリスのオルタナティブロックバンド達は、不景気とブリットポップによって存在感を殆ど失ってしまった。多くのバンドは解散し、そして音楽業界を去っていった

7.主要なオルタナティブロックの音楽性を紹介(USオルタナ)

①Lo-Fi
CDのノイズレスでクリアな特徴を逆手に取り、低解像度な音質で録音された楽曲には、評論家からLo-Fiという名が与えられた。
このジャンルが生まれた最大のきっかけはビート・ハプニングというバンドの登場だと考えられている

そして彼らに影響を受けたペイヴメントが台頭し、Lo-Fiは急速に地位を築いていく

このジャンルはCD業界のセールスが最盛期であった97年前後にピークを迎える。特にニュートラル・ミルク・ホテルが有名だ

Lo-Fiはあくまでも音質で括られたジャンルであるため、メロディ性は各バンドや各時代でバラバラになってしまう、という欠点がある。
しかし、オルタナティブロックにとって音作りの重要性が高い事を示す良いジャンルだろう。
また、音の悪さという要素は時代を超えるポテンシャルが有る。今のバンドには当時の録音環境や機材が再現しづらいからだ

②ギターロック系
日本人だけが使う呼称。後世の日本において正統派と捉えられた米国オルタナ勢はこう呼ばれている。
「オルタナティブなのに正統派があるのか?」とか、
「むしろギターじゃないロックって何だよ?」といったツッコミを受けがちだが、後の日本バンドを理解するうえでとても重要な括りになる。
なお米国では特に名前が無いようだ

③グランジ
グランジというジャンルに対して「ヘヴィメタルとの違いがわからない」という意見が時々見受けられる。
グランジとヘヴィメタルは互いに影響を与えているため、後年振り返った時に違いが分かりづらい、という現象が発生する。これは仕方のない事だ。
グランジバンドはステージ衣装を着ない、CDにイラストではなく写真を使う、といった見てわかる違いもあるのだが、やはり気にかかるのは音楽性だろう

エフェクターを曲中に踏んで音質を切り換えたり、
やたらとハッキリ聞き取れるベース音、Aメロでギターを弾かない個所を設ける、
リズムギターがあまり入らない、ギターソロは必要最低限、
バラードをアルバムに入れない、社会批判的な歌詞を書く、といった特徴がある。
メロディの中心を担うのがリズム隊という曲も多く、ベースが主旋律に食い込んで来るような曲作りにも出会える

曲中でエフェクターを踏む必要があるため、ステージパフォーマンスにもかなり癖が出ており、ヘヴィメタルバンドなどがステージを大胆に大きく使っていたのに対して、グランジバンドのギターは所定の位置で暴れている事が多い

この動画の6秒目を観て欲しい。カート・コバーンがエフェクターをポチッと踏んで、イントロの音を切り替えているのが分かるだろう

上記の特徴は殆どオルタナティブロックの特徴であるため、オルタナティブロックに影響を強く受けたメタルバンドがグランジである、という解釈も可能だ。
実際私もそう解釈している

グランジはメタルとオルタナが溶け合っていく過渡期に産み落とされた音楽たち、という考え方でもあまり問題はないだろう。
彼らが開拓した技法は後の様々なジャンルで応用されている。
なおグランジバンドはアルペジオをあまり用いない

④ライオットガール
第3派フェミニズムが吹き荒れる90年代のアメリカではガールズバンドが数多く登場した。彼女らはライオットガールと呼ばれている。曲調はパンクとグランジに該当するグループが多い。
歌詞には痛烈な社会批判や男性批判、元カレへの悪口などが多く含まれているらしい。
もっとも有名なグループはビキニ・キルとL7だろう。
残念ながらこのジャンルには私の好きな曲があまり無いため、曲紹介は控えさせていただく(好きではない曲を紹介するのは不誠実だと思っているので)

⑤ペイズリーアンダーグラウンド
珍しい事にロサンゼルスのオルタナティブシーンにはペイズリーアンダーグラウンドという名前が付いている。このシーンが評論家の目に留まるのは結構早かったようだ。このシーンが存在していたのは1983年から89年頃までであり、オルタナブームの前に消滅しているため、今聴くとかなり曲調が浮いている

⑥ポストロック・マスロック
1989年頃にスリント等が登場してポストロックと呼ばれるジャンルが発足し始めた。このジャンルはモグワイの登場で知名度を飛躍させる。
結果的にはモグワイがジャンルイメージや音楽性を決定づけたと考える事も可能な程の影響力がある。初期のポストロックには音楽的な共通項が少なかったためだ(モグワイはイギリスのバンドである点に注意)

マスロックも同じくスリント等の登場によって躍進し始めた。マスロックは80年代のキング・クリムゾンに影響を受けたバンドがとても多い事が特徴である。
この2ジャンルは(特にマスロックは)日本人が大活躍するため洋楽を沢山抑えておく必要性はあまり高く無い

8.1994年の到来(過激さを増すUSオルタナ)

90年代を通じて米国では過激なアプローチを主軸とするジャンルが大躍進していった。その最大の転換点に1994年が挙げられる。
グリーン・デイの「ドゥーキー」
オフスプリングの「スマッシュ」
ランシドの「レッツ・ゴー」
NOFXの「パンク・イン・ドラヴリック」
バッド・レリジョンの「ストレンジャー・ザン・フィクション」
ラグワゴンの「トラッシュド」
ペニーワイズの「アンノウン・ロード(93年)」と「アバウト・タイム(95年)」
などが発売された事が引き金となり、全米でポップパンク/ポストハードコアといった界隈のバンド群が一斉に注目を浴びていく事となった

また、この時期にエクストリームメタルやグラインドコア等への注目も格段に増したと考えられており、中でもデスが発表した「ヒューマン」や「インディヴィジュアル・ソート・パターンズ」によってデスメタルが特に注目されていたと言われる

そしてウィーザーやザ・マフスの登場によりパワーポップへの関心も高まっており、この時期における米国ではメロディの過激さが急速に需要を増していった事が伺える。
他にラップメタル(ファンクメタルとも呼ばれる)が台頭し始めた

1994年にはニルヴァーナのギターボーカルであったカート・コバーンが自殺してしまい、その結果グランジシーンは求心力を失っていった

80年代に好評を博していたアルペジオ奏法などの、いわゆる「オルタナ進行」は使用者がめっきり減っていき、この年はきっと時代の分水嶺に感じられるだろう

米国ロックが過激さを増していった原因はヒップホップの台頭にある

社会批判的なオルタナティブロックの愛好家達すらドン引きさせてしまうような、非常に強烈なメッセージを多分に含んだヒップホップへ火が付いていった事により、90年代では段々とメロディの優美さよりも苛烈な文言を有する音楽がヒットチャートを席巻していった。
若者たちは音楽に強いメッセージを求めるようになり、ロックの技法や技巧は少しずつ歌詞のおまけ的な存在になっていった。
作曲/編曲/音作りを重視して歌詞は文学的/抒情的/陰翳に、といったオルタナティブロックの価値観は90年代後半には最早全く通用しなくなっていた

ヒップホップのメロディはサンプリングと云う手法で制作されており、これは既存のレコードが持つメロディをそのまま引用して使う物である。
メロディワークの重要性が落ちていく中で、ポップパンク/ポストハードコアといった苛烈な歌詞で戦えるグループが勢力を伸ばして行ったのである。そしてそれに伴い過激な歌詞に押し負けないような、高度で力強い演奏が求められていったと言えるだろう
(とはいえ、どの時代も売れている音楽は主に歌詞で人気を獲得しているのが世の常ではある)

また、90年代後半はフェスブームと呼べるほど野外フェスが増えて始めており、ライブハウス向けの曲展開やサウンドは有効性がどんどん落ちていった。
こうしてオルタナティブロックは「優美なメロディでなければならない」という呪縛から解き放たれていったのだ

9.第2次UKオルタナへ

1994年から1996年にかけて、前時代的なオルタナティブロックのメロディ性はイギリスから殆ど消滅していった。
一方でブリットポップには迎合せず、かといって80年代のUKオルタナのメロディ理念は引き継がない、非常に個性的なバンドが好評を博していた。主にレディオヘッドやプライマル・スクリームなどである。
彼らはクラウトロックや米国のソニック・ユースというバンドに強く影響を受けており、前衛的な作風で評論家の絶賛を買っていた

1997年にブリットポップブームが終わると、それと入れ替わるように、
レディオヘッドの「OKコンピューター」
プライマル・スクリームの「バニシング・ポイント」
ブラーの「ブラー」
ケミカル・ブラザーズの「ディグ・ユア・オウン・ホール」
ステレオラブの「ドッツ・アンド・ループス」
スピリチュアライズドの「宇宙遊泳」
などが登場し、イギリスを新たな音楽性が席巻していった。
これらの新しい前衛的な作風は、結果としてオルタナティブロックと呼ばれていく事になる

一応、メロディ的にはアシッドハウスやらネオ・サイケデリア等といった分類法を使った評論家も居たようだが、ジャンル名を無限に細分化する行為が有意義だと思う人間はあまり居ないだろう

これら1997年以後のオルタナティブロック(以下、第2次UKオルタナ)が放つ作風は、2000年代・2010年代を通じてバリバリに現役であったため、一部のマニアから「イギリス人はレディオヘッド病に罹患している」と言われる事もしばしばだ。
かく言う私も、イギリスのロックバンド達は現在でも第2次UKオルタナ世代の真っただ中に居ると、そんな印象を受けてしまう事は否めない

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米英のオルタナティブロックを聴く際には、90年代半ばにメロディ志向の大きな断絶が存在している事に是非とも注意して欲しい。
歌詞で洋楽を選んでいる人にはあまり関係ないが、どちらかというとポップな作風が好きな方は90年代前半までを、過激さや前衛的なアプローチを求める方は90年代半ば以後を重点的に掘り下げて聴いていくと良い。
ヒップホップとエクストリームメタルやハードコアの価値観が台頭していった米国、プログレッシブロックの価値観が波及していった英国、好きな方を選ぶと良いだろう

なお私は94年以後の洋楽はあまり聴かないので、私が紡ぐオルタナティブロックの歴史【洋楽編】はここで終わりになる。申し訳ない。
いつか94年以後で好きな曲の紹介でもしたいところだ

10.その後の音楽業界について

1998年前後から違法アップロードが世界的に問題となっていた。当時のネット回線は貧弱だったものの、mp3という高効率な圧縮フォーマットの登場により音楽の流出は歯止めが利かなくなっていたのだ。
音楽業界はこれに裁判をもって応戦したが起訴されたのはダウンロードを行った一般人であり、アップロードした人物を取り締まる事は殆ど出来なかった。コピーコントロールCDなどの新しい技術で対抗策を産み出すも効果は皆無だった。
何年も経ってからアップロードの主犯格が裁判に掛けられる日がやって来たが、米国の裁判所は彼らの多くを無罪とした。アップロードは国民の正当な権利だと陪審員が認めたのである。
音楽業界は瓦解していった。
CDセールスは2000年頃をピークに僅か10年程度で80%近く市場が縮小し、2003年頃から一気に普及したiPodとiTunesによって音楽業界は更に追い込まれていく。その上、少子化の影響もあり音楽を求める若者の数自体が減っていった。
音楽雑誌の売上もインターネットが普及した余波で一気に下落し始め、音楽評論家の発信力は落ちて行った。
ネットの書き込みが猛威を振るうようになった事でミュージシャンへの誹謗中傷は加速した。2000年代のロックバンドはかつて無い程の苦境に立たされる。
売れ線の曲を作ればネット上の過激なロック愛好家から批判が相次ぎ、売れる曲を作っても発売前日にはネット上に流出しており誰も買わず、例えヒットしても食っていける程の収入には成らない事がざらだった。
新時代の音楽業界で勝利を手にしたのはAppleだけだったとさえ言われている

90年代前半に6大レコード会社と呼ばれていた企業達は新興のユニバーサルミュージックに全て追い抜かれてしまい、2012年にEMIが買収された事で現在では世界3大レコード会社と呼ばれている

急速に縮小した音楽業界は左翼思想と急接近し、業界や音楽メディアはアメリカ民主党的な左翼アカデミズムに乗っ取られていった。今日のハリウッド/アカデミー賞が日本のネットで猛批判を受けている様に、音楽業界/グラミー賞は米国で猛批判を受けている。
ロックは政治色を再び強めて行き、それに迎合出来ない国民の反発を招いている。私は歌詞で洋楽を選ばないのであまり実感は無いが、歌詞派の日本人は2010年代に洋楽離れを加速させて行ったらしい。
人種・性別・性的志向・職業などによる差別へ毅然と対抗する、ロックはそんな性質を強くして行ったのだ。これも時代の変遷が産む新たな需要と供給だろうか?私には分からない

2016年以後は音楽のサブスクリプションサービスが爆発的に普及し、CDの売上をレコードが久々に上回るなどの明るいニュースも登場した。ここから先の音楽業界はきっと書かなくても貴方は知っているだろう。
音楽は製品販売を重視する市場を脱し、ライブなどの体験を重視する形の市場へと変遷していった。
そこへコロナウイルスが襲って来たが、人類はこの災害をも乗り越えて行った

2024年06月21日