比較優位の法則が迎える限界は何だろう
比較優位の法則という物が在る。世界各国がそれぞれ得意な物を生産する事で、最も優れた製品が世界を覆い尽くし、結果として世界の幸福量が増える、という物だ。
多くはグローバリズムの素晴らしさを説く場合に登場する理屈だ
この理屈は1ヶ国単位でも当てはまる。国内に居るそれぞれの労働者が最も向いている仕事に就く事で社会が豊かになる、といったように
比較優位の法則には欠点も存在する。自国/自分よりも優れている他国/他者が現れた場合、存在意義の殆どが失われてしまう可能性も在るという点だ
もし優れている相手によって存在意義を失った場合、報われる見込みは低い。それは今の社会が民主的である為だ
アメリカのパソコンと日本のパソコンが市場を食い合い、結果として日本のパソコンが敗れたとしても、多くの日本人は損をしない。損をするのは国内でも極一握りのパソコンメーカー従事者だけだからだ。優れたアメリカのパソコンを使える喜びの総量は、敗れ去る悲しみの総量よりも確実に多いため、多数決によって搔き消えて行く。民主的な国家は多数派の幸せにひれ伏すより他は無い
生成AIで同じことが起きていくだろう。AIで損をする人よりも得をする人の方が絶対に多いのだ。これは音楽のサブスクが普及した現在のミュージシャンが愚痴っているのに似ている。民主主義はどこか残酷だ
しかし比較優位の法則はいつか国民に拒否される日が来るかも知れない。この理屈は「他人の幸福へ身を捧げる」という規範を含んでしまう。そんな全体主義はお断りだと考える人達が出て来るかも知れないのだ。
また発想を逆転させ、「私たち多数派の為に犠牲と成れ」という抑圧を産むかも知れない。そんな人が居ないとも限らない(なんとなく日本にはきっと居ないだろうと思ってしまったのだが)
そうして少しずつ社会にヒビが入る。そんな社会には成って欲しくない、と私は考えていた
ところがこのNoteを偶然読んだところ
この投稿の中にこの話題が張ってあった
うーむ・・・
私の頭では難しい話題だ
歴史上の人類社会では姥捨て山や奇妙な成人の儀が存在する村は多く見られた。これは少数派を犠牲にする仕組みだった。
例えば槍1本でライオンを狩る成人の儀は、男手を減らす上手い方法である。男が少し死んでも村は滅びない、むしろ上手く回る。
これらは古代人が出したトロッコ問題の結論と言えるだろう
しかし死んでしまった者は社会に刃向かって来ないだろうが、比較優位の法則で犠牲に成っても死にはしない。彼らは選挙権を持ち続けるのだ。
もしも比較優位の法則がもたらす悲哀を浴びた人数が、比較優位の法則がもたらす幸福を実感出来ている人数を上回ってしまった場合、何が起きるだろう。私には想像が付かない
悲哀は幸福よりも強力な気がするのは錯覚だろうか?
そして幸福を必ずしも人間の脳が知覚し続けるとは限らない。幸せにはいつか慣れてしまう
比較優位の法則が加速していったその先で、何か大きな変革が待っているような、そんな気がしている。
社会は別に理論で成り立っている訳では無い。社会を構築する根底に在るのは私達の脳みそ1つ1つである。
社会変革は感情論で起きる物だと私は思う。私が生きている内にそれをこの目で見る日が来るのだろうか。
今のところ来て欲しいとは思っていない。これは単に運が良いだけかも知れない、そんな気もしている
2024年06月28日