植松聖は私に語りかける

昨日仕事中に、私はなんとなく植松聖死刑囚の事を考えていた

先日、電車に揺られながらNoteを沢山読んでいた。その中に確か彼の記事があったと思う。それが頭に残っていたのだろう

仕事から帰ると白饅頭さんがこんな記事を投稿していた

夜が深まると私はなんとなく植松死刑囚のウィキペディアを読み始めた。彼はまだ生きているようだ

彼の残した言葉の中に、重度の障害者はトイレも出来ないのだ、という旨の論説がある。私の曽祖母も認知症でかなりの奇行に及んでおり、そういった粗相の話は聞き覚えがある。授業などでもいくらか習っている

私は植松理論を否定できるだろうか。あの事件が起きた時には出来なかった

残念ながら今も出来ないようだ

この社会には、
「全ての人に生きる価値がある。命の価値は平等だ」
という主旨の理念がある。
その理想に、美学に、ご高説に、私は本当に心から賛同出来ているだろうか?

私は弱い。私は醜く卑劣だろう。植松死刑囚の理論に抗う心を持たない。彼の意見を全否定する勇気も強さもない

「この世には生きるに値しない人間がいる。」
という植松理論を誰かが打倒してくれる日を、指を咥えて待っているだけだ

私はリベラリズムが嫌いだ。リベラリズムは脆く、儚く、嘘まみれだからだ。
けれどリベラリズムは美しい。
もしリベラリズムが植松理論に勝てるなら、私はリベラリストに改宗してもいい。
誰かに植松理論を打ち倒して欲しいのだ。
理由なんてわからない

これは祈りだろうか

2024年05月21日