オルタナティヴロック第1世代【日本編】

1990年頃、日本に「オルタナ進行」がやって来た

インターネットが無い時代には「海外の流行は3年以上遅れて日本にやって来る」と言われていたようだ。英国でオルタナティヴロックが波及し始めたのは1984年頃からであり、87年頃には日本の洋楽コレクター達に存在が轟いていた。
彼ら洋楽コレクター達の中から日本のオルタナティヴロックが少しずつ現れる。
では時系列を少し整理しながら追って行こう


第1次バンドブーム

1978年にイエロー・マジック・オーケストラがデビューすると第1次バンドブームと呼ばれる現象が発生した。この現象で重要な事は、ロックバンドがテレビに出られるようになったという事だ。
70年代の大半を通じてロックバンドは事実上テレビ業界から干されて居た為に、バンドマンの多くは音楽業界やテレビ業界の裏方として働いていた。
アイドルのバックバンドなどを勤め上げていたのだ。
しかしバンドブームのお陰で彼らは裏方から表舞台へと躍り出た。当時インディーズ音楽会社は日本に殆ど無かったので彼らは全てメジャーバンドである点も特徴である。
ムーンライダーズ、ゴダイゴ、テクノ御三家、四人囃子、サザンオールスターズ、カシオペア、ルースターズなどが有名だ

日本のロック文化は不遇な70年代を経て、唐突にポストパンク/ニューウエイブが花開く事となった。
メロディ分類的にはシンセポップ、フュージョン、ディスコ、パンク、そしてポンプロック(元プログレバンド)が多い

メジャー音楽会社は勤労者音楽協議会よりの音楽家を業界からほぼ一掃する事に成功した。才能さえ有ればミュージシャンという夢は誰にでもチャンスが訪れると言っても過言では無くなった。
70年代までは、音楽家の家系に生まれた戦前/戦中の作曲家達がまだまだ威張って居たのである。第1次バンドブームは日本のメロディワーク全般に対して、間違いなく転換点と言える時期だ


第2次バンドブーム(メジャーデビューブーム)

80年代後半までにはインディーズ会社が多数出現し、インディーバンドが数多く活躍した。当時はヤンキー文化全盛期だった事の余波で不良っぽさを前面に出したグループが多い。
音楽性はパンクとポジティブパンク(ゴシックロック)でほぼ2分されている印象だ

インディーズ会社が多く出現した最大のきっかけはバブル景気による後押しであった。これらの会社は決して経営のプロでは無い為に赤字が常態化してしまう

1987年にザ・ブルーハーツやザ・コレクターズ、ユニコーンやJUN SKY WALKER(S)がメジャーへ躍り出るとバンドブームは更に過熱する。
彼らに続いて多くのインディーズバンドが明確にメジャーデビューを志すように成る

BUCK-TICKが周囲に「俺達は音楽業界のてっぺんを取りに行くよ」と言い、見事チャート1位へ登り詰めるといった非常に格好良い逸話も残っている

他に「いかすバンド天国」というテレビ番組からメジャーへ躍り出たグループが居た。その中でも特にたまとBLANKEY JET CITYが有名。
日本は空前のバンドブームであり、空前のメジャーデビューブームだったと言える


メジャー会社によるサブブランド/マイナーレーベルの設立とオルタナティヴロックの登場。そして衰退

バブル景気に押されてメジャー会社はサブブランド/マイナーレーベルを設立し始める。マニア向けのバンドを抱えて彼らの作品制作を後押しする事が狙いだったと思われる。
これらのサブブランドは特定の社員による独断的価値観に依拠しており、景気の良さを感じられるだろう。会社に予算が在ったのだ

このサブブランドから多くのオルタナティヴロックバンドがデビューする事となる。作りたい音楽像はハッキリ有るが予算に欠けるバンド達と、まだ見ぬ新しい音楽性を売り出す事で後世に影響を残したい社員、利益を得たい音楽会社、という3者の思惑が上手く重なっていた

しかし1992年、日本の景気は急速に悪化し始める。バブル崩壊が訪れたのだ。
インディーズ会社は1993年頃に軒並み倒産してしまい、サブブランドも閉鎖されていった。売上至上主義が強かった90年代に於いて、オルタナ第1世代は大半が後世に名前を残す事は叶わなかったと言える。サブスクの時代が到来して多少改善したものの、活動期間が短すぎる上に、リリース数も少なく、CDの再発売も無かった為に彼らはマニアの間ですら結構マイナーな存在だった。
特定の超売れっ子バンドを除けばオルタナ第1世代は世間的に無名なグループばかりである。これは時勢的に仕方が無く、運が悪かったとしか言えない

1994年から1996年にかけて、インディーズ悪夢の3年間が訪れる。この期間に活動出来たインディーズバンドは皆無だったと言われている。そして多くのオルタナバンドがメジャー会社から解雇されていった。
芽生えたばかりの日本産オルタナティヴロックは不景気によって出鼻をくじかれてしまった


日本初のオルタナティヴロックはどの曲か?

オルタナティヴロックのメロディ構成は独特な印象を放つ。イギリスで1982年前後から少しずつ流行り始めたこのメロディ偏向性は、1990年頃には日本のバンドマンに強い影響や革新をもたらし始めた。
異論もあるだろうが、恐らく日本初のオルタナ進行はこの曲だろう

アルペジオ奏法、ギターが放つ深みの在る音色。
リズムギターの消失と主張の強いベースライン。非ディスコ/非パンク的なリズムパターン。
私服っぽい衣装と何が写っているのかよく分からないレコードジャケット。
死後の世界を連想させる幻想的で破滅的な歌詞。
オルタナティヴロックの特徴を持っていると云えるだろう。
この曲は1984年に発表されているので、ザ・キュアーなどがオルタナサウンドに接近し始めるより少し早い。ルースターズはかなり耳の早いグループだったのだろう。当時だとかなり浮いた音楽性に思われた筈だ


1994年頃までに登場したオルタナティヴロック第1世代の曲を紹介



基本的にクアトロというライブハウスに出入りしていた人間が多い。このライブハウスが渋谷に在ったので、今日では彼らの多くが渋谷系と呼ばれている。
そしてBUCK-TICKやL'Arc〜en〜Cielの様に、ネオサイケ/ゴシックロックからオルタナサウンドへと発展して行ったグループ達は、ヴィジュアル系に括られている。
両陣営共に英国のオルタナバンドから強く影響を受けている事が特徴だ。米国のオルタナバンドから影響を受けたグループが出てくるのはもう少し後になる。
英国オルタナに於いても「メジャー勢のネオサイケ/ゴシックvsインディー勢」という構造は顕著であったが、日本でも「ヴィジュアル系と渋谷系」という何となく近しい構図に成っているのが個人的には面白い所だ。
多くのオルタナバンドは音楽業界の不景気や、残念ながらヒット作を出せなかった事により、96年までにメジャーシーンから去って行った。
また、新しく挑戦したい音楽性を見つけた為にメンバーと齟齬が生まれて解散に至った、というパターンが多い


何故このような曲調になったのか?

オルタナティヴロックとはマーケットで括られた音楽であり、地方的なシーンが米英に多く存在していた事に由来しているので、日本産オルタナバンドの曲調に偏りが感じられるのはおかしい、と思う人も居るだろう。これは至極正論である。
しかし当時の洋楽コレクター達にとって、今聴いている音楽が地方的なマイナー作品なのか、又は国家単位での強い知名度を誇る物なのか、という事は重要性が低く、重要なのはメロディの美麗さであったと考えられるだろう。
結果としてC86系やマッドチェスター、シューゲイザーやネオサイケ寄りのサウンドが第1世代では跋扈する事となった。
80年代の洋楽コレクターはイギリス偏重型の人間が多く、好みが英国オルタナにかなり偏っていた模様だ。
上に挙げていないグループだとフィッシュマンズなどは英国の香りが薄いグループと呼べるだろう。
こういったメロディ性の偏りは音楽会社側の影響も有った点には注意して欲しい。プロデューサーや社員にも好みが有るのだ

外国の芸術を輸入する過程に於いて、ジャンルが持つ価値観が偏ったり、部分的に削がれてしまう事は多々有る。
「オルタナ進行」は日本人による独自解釈を多分に含んでおり、輸入する過程でオルタナティヴという単語が持つ「地方的な音楽/音楽市場の支流・傍流」という意味は変遷してしまったと言っても過言では無い。
しかしこのガラパゴス的/ジャパナイズ的な解釈こそが、数十年経っても日本の音楽業界でオルタナティヴロックが強い存在感や伝統性を放ち続ける原動力に成って行った。
日本人による日本人向けの独自性に満ちたサウンドが育まれていったのだ

2024年07月05日