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アシタカvol.4

「再生」


石火矢に倒れたアシタカが、シシガミに生かされた。

そこへ様々な思惑を持ったものが登場する。イノシシの集団を率いる乙事主であり、ジコ坊操るジバシリ、タタラバのエボシである。
助けを求め、かつての過去の栄光にすがるもの。不老不死といわれるシシガミの頭を尊い人々のために手に入れ、一獲千金を狙うもの。その片棒を担いでいるようでも自分の生きている意味と繋げ現実的な妥協点としてシシガミ退治に行くもの。

サンは、目を病んでいる乙事主の目になって一緒に戦っていく。乙事主の山を守りたいという想いも理解できる。ジコ坊の現実的な生き方は、私にはできないが、不満や悔しさを少しでも軽くするのに現実に即して生きることを責められない。ただ、相手は『神』である。そこで、神をも恐れぬタタラバのエボシが、「遅れをとるな」と発砲する。
多分、エボシは何かを捨てて生きているように思える。それは、去勢に近いものであろう。でも、そういいきれないように感じる。
ストーリーが、そうだからということもあるが、弱者の見方であるが、影を感じてしまう。彼女自身の欠如に充分に向かい合えていないのかもしれない。人は、永遠にそうなのだろうか。

アシタカは、戦いの最中も「双方生きる道はないのか」と問いかけ続ける。
私は、この言葉をきいたとき、なぜこの物語は、「アシタカ」ではないのだろうと思った。アシタカは、運命を受け入れ、里を離れ祟りの起こりを見つめてきたのだから、けれど命は助けられても、シシガミは祟りを残した。
そこで、アシタカはどう生きたか?そのまま、今までのようにそこで、今なすべきことに全力を注いでいく。
アシタカは、サンと力を合わせ全身に祟りの痣を受けながら、シシガミに頭を還す。

私は、この後からが好きだ。音楽も素敵だし、シシガミは、「生でもあり、死でもある」ということ。死は、外に在るのではないと言われているような気がする。だから、緑の森が新しく生まれていくことやこだまがまた生まれていることが愛おしいように感じた。

サンもアシタカもそれでもそれぞれの場所で生き、会いに行くという。
生きることの美しさを感じた。

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