大島紬の歴史について

大島紬の歴史について
大島紬の歴史といえば巷間述べられていることは千三百年ないし四百年といわれていますが、この件に関する裏付けは正倉院に液久より褐色の布が献上されたとの記述を元にしているのです。
当時 奄美や屋久島、種子島方面を液久と呼称していたようです。
これらのことを根拠に大島紬の歴史を千三百年と言い習わしてきたのです。
 古代より衣食住はその土地において自給自足の状態であり、現在の様な分業体制は取られておらず、その土地により布も織られていたのです、奄美もその例にもれず布を自ら生産していたのです。その一例が芭蕉布であり、布を再利用した作使布(サクシギン)いわゆる裂き織りでした、木綿は流通しておらず奄美では山繭を使った紬織物を織っていたと考えられます。
 時代は遡り江戸期の薩摩藩の時代になると奄美も砂糖の収穫に追われ、千七百二十年(享保5年)薩摩藩より奄美島民に対して絹布着用禁止令が出され、島民の一部の人を除き紬の着用が禁止されたのです。
紬を作っても着用ができないため、 一般庶民では紬は作られず、その作り手は島役人の婦女子によって上司の付け届け用として細々と作り続けられていたのです。
 島役人(ユカリッチュ)とは記録によると、黒糖の上納額により郷士格として出世しその後同じ島民を監視管理するようになるのです。
 その他の島役人は薩摩から奄美へ派遣された代官やその付き人等により島妻(アンゴ)として娶ったその子弟等が島役人として登用されていくのです。
 現在の我々の常識から判断すると島妻はいわゆる妾として捉えられがちですが、その当時は島妻にされることは一族の繁栄に繋がるものと考えられていたのではないかと推測されます、その子弟等が後々島役人として登用され苗字を許されていくのです。
驚くことにその島妻の養育費はその夫である代官や附役が面倒みるのではなく、その地域全体で経費を負担しなければならないのです。
薩摩藩は千七百四十五年(延喜2年)「換糖上納制」をはじめとして
千八百三十年(天保元年)「三島砂糖総買い入れ」となり奄美三島は黒糖地獄へと突き進んでいくのです。
その負の遺産として家人「ヤンチュ」が生まれるのです。
ヤンチュとは年貢としての砂糖を上納できず自ら身売りをした人々のことです。
 予め決められていた黒糖の割り当て分を収めきれず、島役人から砂糖を用立て貰いそれの返済に窮した人が自ら島役人に身売りをして家人(ヤンチュ)へと身を落としていくのです、この制度は明治維新後までしばらく続き家人解放令が布告されるまで維持されたのです、
この制度を書くにあたっては別に項目を設けるほど大変なことです。
閑話休題
 明治維新(明治10年頃)になり、それまで島役人としての特権を奪われ自らの手で食扶持を作り出さなければならず、その一部の人達が紬の生産を始めたのです。
最初は手括りによる紬作りを始めたのです。
紬作りに男性が関わり始めます、島役人の子弟等が紬作りを始めます、その中の代表的人物が永江伊栄温や昇 庸実です、二人は義兄弟です、庸実は伊栄温の妹と結婚していたのです。
その他に昇家からは多数の紬従事者が輩出します、中でも登山伊次郎は「箱積り」を考案し、絵絣大島紬を開発します、さらに永江諒彦氏は後の都城で大島紬を生産し現在に至る永江明夫氏に引き継がれています。
私が本場奄美大島紬協同組合百周年記念の時期に合わせて同紙に投稿した資料にて永江伊栄温氏の件に対して、同氏の奥様から電話でお礼を頂いた時に、私は長年の懸案である「当八」の件を尋ねてみました。奥様からの答えは「当八」はいたとのことでした、しかし夭逝していたのです、これで長年の通説が覆されたのです。通説とは茂野幽考氏の唱える「当八」説です。この件に関しては後ほどに明らかにします。
 このようにして紬は作られて行きました、まだ大島紬とは言い表していないのではないかと思われます。
 大島紬は徐々に発展し明治10年には大阪にて商品として取引が開始されます。
明治12年には雑多な木々からティーチ木へと統一され泥染めが一応の完成をします。四元ユキ氏による発案
明治18年鹿児島にて大島紬の生産が始まる。
明治23年国内産業博覧会出品(丸田嫌義氏)本土移出始まる。
さらに明治23年には浜上あい女史による針を使った絣調整技法が考案され大島紬はより鮮明な絣織物となっていくのです。
明治25年名瀬にて昇、永江氏紬工場設立する。(庸実の二階屋)
明治23年昇(50才)永江(55才)久留米、名古屋産地視察へ行く
明治34年重井小坊(29才)締機の研究始める
明治35年大島紬同業組合創立 丸田嫌義氏が設立発起人。松元弥市郎氏(大阪にて全国の織物販売で当時紬王と呼ばれる)同組合へ当時の金で100円の寄付をする。
明治36年に再び久留米、名古屋へ視察に行く
明治37年日露戦争により乱売がありそれを是正するために大島紬無検査売買禁止
明治38年 久留米にて原野与平「織経」発明
明治40年 昇(57才)永江(63才)締機開発、実際は昇信久万と甥の治太郎が大いに協力したのではないかと考えられる。
明治42年 昇信久万死去により庸実は伊栄温に相談し「締機」を一般開放する。
明治44年 富山実秀により交代手括り技法開発される。
大正元年 鹿児島県なより大島紬技術指導員配置 
大正2年 大島島庁に大島紬技術改良普及員配置
大正3年頃 徳留勘四郎により交代締め技法開発
大正4年 玉糸から本絹糸への変更 方眼紙による図案使用
この頃喜瀬柄が作られる(喜瀬飛び)ようになり龍郷柄の基礎となる。
大正5年 鹿児島県織物同業組合設立
大正10年 大島紬大暴落 その返済のため機屋は大半が廃業それらの負債を松元弥市郎氏は自ら負い奄美の機屋へは返済を迫らなかったとのことです。
大正13年 川畑孫太郎氏と高橋長吉氏「袋締め技法」の開発
大正14年 郷正義氏泥染めへ石灰を使用することにより泥染めの品質向上を図る。
昭和3年 鹿児島県工業試験場大島分場設置
昭和4年 鹿児島県大島染織指導所設立
昭和16年 太平洋戦争勃発
昭和19年 大島紬絹織物統制組合設立
昭和20年 太平洋戦争終結 奄美沖縄分離米軍管理
昭和25年 大島染織指導所業務再開 大島紬原料糸入荷
昭和33年頃 大島紬に色大島紬が作られる
 この時期から戦後の日本の高度経済成長に乗って大島紬は戦後の一大ブームになっていきます。この頃から色大島紬が作られはじめます。(地摺り込み大島紬この技法は誰が考案したか定かではなく多数の人が名乗りをあげています)
色大島紬のブームは昭和46年頃まで続き、その頃から泥染めを見直す考えが広まり徐々に泥染め大島紬が作られるようになっていきました。泥染め業者は最盛期では70数軒にもなりました。
昭和47年頃より韓国産大島紬が問題になり、群民総決起集会等が開かれ反対運動が盛んになりました。
 その後紬協同組合の建て替え問題が起こり、組合員を二分する問題となり、総会を三回も開くこととになり、その後組合は建て替えられました。
その年の大島紬の生産量は戦後最高の26万反を記録したのですが、生産量は徐々に下がり現在にいたっています。
 
大島紬の発展に寄与した人々
永江伊栄温 締め機の開発 昇庸実と義兄弟
昇 庸実  締め機の開発 いざり機から高機への開発
昇治太郎  締め機の開発に携わり後々締め機の普及発展に寄与し 
      た。当時締め機名人と称される。
重井小坊  締め機の研究 特許申請中に夭逝
四元 ユキ 泥染め用にティーチ木を使用する。
丸田嫌義 大島紬同業組合の設立発起人 紬業に従事弥栄勝柄等の  
     考案 四元ユキ氏は母親
浜上あい 大島紬の製織作業において「つくろい」と呼ばれる技
     法を考案し今日の大島紬の精緻な絣織物とした。
     喜界島の人で海運業に従事した浜上謙翠氏の妻
松元弥市郎 大島紬を一手に引き受け販売し、島の業者を助ける
      同業組合設立に大いに貢献する。かつて「紬王」と呼ばれる。
      全国の紬織物を一手販売する
高橋長吉 大島紬の近代化に尽くし、方眼紙の導入等により現代の大島紬の
     基礎を築いた。
徳留勘四郎 交代締めの考案 この技法により現在の大島紬の大柄が作られ
      るようになった。鹿児島の人で奄美(喜瀬)の人と結婚
登山伊次郎 箱積りの考案による緯絣の大柄作りが可能とる
      かつての日本教図の登山俊彦氏の父親であり
      昇庸実の四番目の弟です。(笠利町の屋仁に顕彰碑あり)
郷 正義  泥染めの近代化に尽くす、石灰を使用することにより
      堅牢度をました
その他大勢いますが、とりあえず今回はこれくらいにしておきます。

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