日記 季節のない街について

・季節のない街
ドラマを観始めてから原作も読み始めて、今週の「がんもどき」も読了した。
その上でドラマの後半を観て感想を書こうかなと思っている。もしかしたら最終回まで観て原作も読み終えてからになるかも。

ドラマ、展開は原作通りなのだけど、筆致が全然違うようにも受け取れて、個人的には受ける印象が結構違う。
(ひとつひとつのエピソードは原作通りだけれど、半助を主人公に据えたり、順番を変えたり、別の展開を入れたり、の、最終回に向かって何かが起こりそうな物語構造は独自であり、そこにも監督のメッセージが含まれると思うのだけど)

「語られるもの」「語られないもの」の物語の作り・見せ方としてのバランスと、(これはあやふやではあるけれど)時代の差から来る、背景も大きくありそうな気がする。
クドカンはこの背景をかなり違和感なく現代に落とし込んでいる(と私は感じる)けれど、その作業は、物語に温度を持った怒りを付与している気もする。

小説は、登場人物たちの心情を饒舌に語り(ドラマで印象的だった、六ちゃんの「母ちゃんの頭がよくなりますように」小説では六ちゃんの心情も細かく言語化されている)
その語り口もなんというか軽妙である。
だからこそ、毎回の展開と結末には、圧倒的な不条理が残る。悲しいとも怒りとも言えない、突き放されたようなどうしようもなさ。哀しい、という言葉は近しいかもしれない。人間の弱さと、世の中の不条理と、残された哀しみ。

クドカンのドラマ版は、その「哀しみ」で止まってしまいそうな頭を、もっと熱を持って動的な何かでいっぱいにする感じがある。人間の、といったような概念ではなく、もっと逼迫した目の前の感情へと駆り立てるような。
生きる時代の違いもあるのかもしれない。現代の私の生きる世界につながるものへと(言わば)「翻訳」されているから、そう感じるのかもしれない。
そういう意味でいちばんの関心は、当時の人々はこの小説をどう受け止めたのだろうということだ。

青空文庫で読み始めたものの、新潮文庫の解説は開高健と今知った。これを読みたいなぁ。半分以上読んだけど、買おうかな。

ドラマも小説もまだ途中だけれど、頭の中が情報過多なので、書いて整理しておくための文章でした。少しずつまた感想を書きます。

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