虎に翼 第十一週


今週はとても心を突かれた。

blueskyのTLで、寅子のある種の「傲慢さ」について指摘されている方が何人かいて、なるほどなぁと思ったのだけど、
恵まれた場所から「私に何かできることは」と短絡的に思ってしまう寅子の姿は、SNSに流れる、大量の・それでいて断片的な(例えば現在進行形の戦争の渦中にいる)情報群を観ている時の、自分自身に重なりもしたからである。

行き場の無い善意というか、見てみぬふりをする(ことになる)自分への言い訳というか。奈津子さんに会った第一声、「ごめんなさい。」「何かが変わったかもしれないのに」に込められた、まさに「傲慢な」自責の念。奈津子さんの返事は、私は個人的には寅子を救った面もあったのではないかと思った。家族にもどうすることはできなかった、は、あなたには何もできなかったのだから、というひとつの許しでもあるような気がして。
自分の無力について、その物事から遠く離れていると、よくわからなくなる。逆に、近ければ近いほど、打ちのめされるほど無力を感じさせられる。


行き場の無い「私にできること」の、着地について、14日(金)の回のチョコレートの絵は語る。

寅子が手渡した「半分のチョコレート」は、花岡の生命は救えなかった。けれど、残された花岡の家族の、明るい光となっていた。

寅子は、一枚まるまるを「恵んだ」わけではなく。花岡へ、ではなく、子供たちへ、と手渡した。半分は猪爪の家族たちへ。

この、同じ夜に、ホーナーはたっぷりのチョコレートを持って猪爪家を訪れた。ホーナーもまた、「恵んだ」わけではなく、渡しても渡しても足りなかったのだ。同じようにこの戦争で大切な人たちを失っていたことが明かされる。

自分の行動の何が、どこの世界の誰に届くかはわからない。もしかしたら、意図しない方向に届いてしまう。いやもしかしなくとも、その可能性がとても高い。意図せず誰かを傷つけるかもしれない。
しかし、この少しずつ小さくなって手渡されるチョコレート(ホーナーが寅子に一枚を、寅子が花岡に半分を、花岡が子供たちへとまた)のように、どこかで誰かを救うかもしれない。


それぞれの正義・曲げられない信念。それは確かにそれぞれにある。

正しさを貫く花岡の、その真逆のもののように描かれたのが酒宴とライアンのジャム入り紅茶。「贅沢」と「甘いもの」
生きてゆくためのもの、だなぁと感じていた。



生きてゆかねばならない。時に妥協しても。
生きてゆかねばならない。時に絶望しても。大いに打ちのめされても。

対立していた「少年審判所」と「家事審判所」が共に手を取ることとなったこと
日本に戻った多岐川さんが再び歩み出そうと思ったこと
奈津子さんの姿

焼け野原の子供たち。「純度の高い正論」
子供という「未来」に、敗戦を経験した大人たちが託したものについて。


「未来」という"概念"のような子供たちの姿。
来週は、ひとりひとりの描写がなされるのだろうか。「子供たちの眼」から観た戦後日本も、今のところまだ描かれていないような気がするので。

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