私の死生観

倫理の授業で出た課題に対する文章です.
まず,私は特定の宗教を強く信じてはいません.その上で,私が思っているようなことを強引に言語化していこうと思います.こんな言い方をするのは,(死生観に限ったことではありませんが,)そもそも私の考えにはまだ一貫性がなく,その時々によって大きく変化し,場合によっては矛盾した複数の考えを同時に持ってしまうことさえもあるからです.定まっていない概念を言語化・固定化させようとすることは,元の概念を崩壊させずには行えません.
死生観について書け,と言われて最初に考えたのは,死後の世界についてです.私は,死後の世界は存在しないだろうと考えています.より正確に言うと,死後,自らが世界だと認識することのできる何かは存在しない,つまり,主観は死後存在しない,となります.主観的な世界に話を限定したのは,認識することのできないものは存在しようとしまいと自分自身に一切の影響を及ぼさないという考えを持っているからです.厳密に述べるために数学の用語を借用すると,“独立している”状態にあたります.すなわち,それについて議論することは無意味ではないが不要である,ということです.
死後に自我は存在しないのだから,自分にとって死後の世界は存在しないと述べましたが,逆に,客観的には自身の存在が残り続けるのではないかと思っています.いわゆる,“みんなの心の中にいつまでもいる”というようなことです.どういうことかというと,「客観的に私が存在している」という状態は,「誰かが私の影響を受けている」ということに他ならないだろう,ということです.
以上のことから,私は,できるだけたくさんの人に大きな影響を与え続けることのできるように生きていくことを目指しています.もちろん,これが最善の生き方であるとか,他の生き方は良くないとか,そういうことを主張するわけではありません.ただ,私は私に主観が存在した証を世界に残すために,いつまでも客観的に存在していたい,と考えています.欲を言うのなら,歴史に大きく名を残し,世界の誰もが知る人物になることができれば最も良いのですが,そうでなくても,関わった人の無意識の中に存在し,間接的であっても単子葉類の木の根が広がるように,私の影響を受ける人が増えていけば十分です.
うまくまとめられているかどうかは疑問ですが,私の死生観はきっとこんな感じではないかと思います.