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 30年程前までは、外に出る時は必ず「靴」を履いて出かけていたと昔母から聞いたことがある。靴を履いている人をテレビで見たことはあるが自分が同じことをすると考えると気味が悪い。

2021年から30年が経った現在、日本ではキャンプやオーガニック食品等の自然派志向がさらに高まり、裸足で生活する人が急激に増え出した。靴を履くという文化は一部の愛好家の中だけで嗜まれるものとなっている。それとともに道路も整備され、ポイ捨ても消えていった。徐々に靴を履くという行為は不衛生、靴を履かないということが「普通」となった。

 あるとき若者の間で足に車輪をつけるおもちゃが流行り出した。くるぶしに輪っかを装着しそこから下へ伸びている車輪。かっこいい。算数のテストで98点を取ってようやく買ってもらった。

 ある日家族でホームセンターに行った際、くるぶしローラーで遊んでいると角から出てきた男の人と衝突した。僕は足の骨を折ってしまった。病院で分厚いギプスを巻かれたが実は足に何かを履かせたのがこの時初めてだったのだ。非常に恥ずかしく、こんなの学校につけていけないよと母にごねたが「今は我慢しなさい」と言われるだけであった。

 学校では皆が珍しげな目でみてくる。「足に何つけてるの?それ、不衛生じゃない?」「汚いよやだ。」次第に僕は一人になる。

 僕は不登校になった。部屋にギプスと二人きり。ギプスはあと一ヶ月も離れてくれない。「お前が離れてくれれば僕は学校に行けるのだ。」


ベンベンベンベン

ベンベンベンベン

ベンベンベンベン

ギプスから何やら音がする。ギプスに耳を近づける。

ベンベンベンベン

鳴り続ける弦を弾くような音。それはどうやらギプスの中から聞こえるらしい。僕はギプスを剥がした。

ベリベリベリ

丸太を退けた下に沢山のダンゴムシが隠れているように、ギプスの下には信託銀行の広報担当のオフィスが隠れていた。オフィスではあちこちで社員がいそいそと仕事をこなしている。そしてその一番端の方のデスクにて若手社員が津軽三味線を弾いている。おそらく2〜3年目だろうか。その若手社員がこちらに気づきこう言う。「ギプスが巻かれたことで会社の風通しが悪くなってしまった。毎日毎日上司に怒鳴られ何の意見も取り入れようとしてくれない。そのせいでここ最近は上司に意見を受け入れてもらいたい一心で仕事をやっていた。しかしそれは違いました。上司の意に沿うために仕事をやっているのではない、忘れてはいけないのはこの信託銀行を利用するお客様の為に働いているという真理。」

僕は信託銀行という初めて聞いたそのワードに喉の心地よさのみを感じた。そして分かっているフリしてその若手社員の話を引き続き聞く。

「三味線といえば、三毛猫の皮や吉田兄弟を連想する方が多い。普通の三味線に三毛猫の皮が使われているのと違い、津軽三味線に使われているのは犬の皮です。三毛猫は別に思い浮かべても恥ずかしくならないけど、吉田兄弟は何故だか少しだけ恥ずかしい。なぜだろう、でもどうにか吉田兄弟以外も連想したい。だから私は津軽三味線を弾いている。津軽三味線を弾きながら吉田兄弟以外のものを連想する訓練を行なっている。」

僕は「犬の皮」というワードを心の中で全文字の間に小さい「ん」を入れて言ってみた。寝起きに言うとちょうど良いかもな、と思った。若手社員がまだ続ける。

「私は物事を多角的に見たいのだ。三味線から放射線状に黒く塗りつぶすくらい何通りも連想したい。お客様の為に!」ベンベンベンベン

若手社員が弦を弾くことをやめないので津軽三味線を耳だけで聞いていると、ふいに風が軽くオフィスに触る。部屋の入り口を見るとお母さんが立っており僕の足を見て青ざめている。

母親と医者にギプスを剥がしたことを怒られ病院で新たなギプスを巻かれた。次の日朝起きてガチガチに固められた自分の足を見ながら「いんぬんのんかんわん」と口に出してみたら、吉幾三を思い出した。

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