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8.14

眠れたのか眠れていないのかわからない日々を過ごしている。2週間ごとにショートとロングを繰り返す睡眠スタイルのあたしにとって、いまの期間は一体何なのか、よくわからない。浅い眠りはほぼ夢の中で、その夢の中でいろんなことを考えてしまう。なのに夢に誰かは出てこない。誰か出てきてほしい。あたしの手をとる、誰か。

人は変わらないか? を常に考えている。ヒトは、20歳を超えたあたりには人格の基盤はできてしまう。だから、どんなことがあっても、特に、大人は変わらない。尊敬する人がそんなふうにずっと言うが、それを否定したい気持ちをあたしはずっと持っている。人は変わろうとすることはできるんじゃないか。変われなくても演じたり努力したりすることはできるんじゃないかと。それを繰り返しているうちに、少しずつでも変わるんじゃないかと。あたしは人の、可能性に賭けたい。

相手の気持ちになって考える、とは簡単なようでおそらくこの世でトップクラスの難問だと思う。だって相手の気持ちなんてわからないから。だから我々は想像する。どんな鳥も想像より高く飛ぶことはできなくても、ヒトならば想像よりも高いところを見ようとすることはできるんじゃないか。

そして、更なる難問はこの「相手の気持ちになって考えよう」ということを他者に教えること。将来、あなたが誰かを無下に傷つけてしまわないように。それによって自分も傷つかないように。

作ったベシャメルソースの味がとても濃いことに気がつく。味覚障害が改善されてきたのかもしれない。この数日、ずっと味の濃いお料理を提供してきたのだろうか。腎臓には頑張ってほしい。

ローマは一日にして成らず。
ローマに限らず何かが瞬時に完成することなんてない。時間、労力、熟考、全てが基礎になり材料となっているのに、我々は簡単にその基礎を破壊する。そこに何かがあることを当たり前と思ってしまっている。失ってから気づく。わかっているのに、ままならない。だから細部を見たい。いま、基礎の上に乗っかっているものが当たり前だとは思いたくない。

しばらく縄にさわっていなくて、教室にも行きたいし先生にもお会いしたいのだけれど、お腹の中の問題により代謝が上がりすぎで、動くとすぐに喘鳴がし、汗が驚くほど出てしまうので、もうしばらくは無理なのかなと悲しくもある。ずいぶんと縄のさばき方も忘れてしまった。4月以降、もしかしなくてもずっと色んなことをおざなりにしてしまっているのかもしれない。可能なところまで頑張りたかったのに、頑張れないことが悔しいのかもしれない。

自分の中で答えを出したことや、もう終わってしまったことに対して、後から色々と言葉を重ねるのも嫌で、もうここで終わりにしたい。議題を次へと移りたい。だけれど、どうやらまだ頭はついていっていないようで、解決も納得もしたのにふと今朝も涙をベランダに落としてしまった。泣いたところでどうしようもないが、きっと自分が不甲斐なくて泣いているのだ。こんなに愚かな自分、可哀想でならない。それでいて、涙が溢れた分だけきっと、楽になれるから不思議だ。

涙にはストレス成分が入っているから、泣いた方がいいんだと思う。いつかのきみは深夜にラーメンをすすりながら、そう言ったんだった。

相手もいないことだし、気ままに遊んでもいいんじゃないかとか思っている時が気楽で楽しいのかもしれない。だけど、誰かと深く繋がって離れ難い何かを感じて、育み積み上げたことに感謝して、ありがとうって言いながら進む日々の方が幸福度があがるはずだ。どうしてもそれができない人もいるし、できない自分もたまにいる。

加虐欲のありかについて考える。どこから生まれ出るのか。サディストではないあたしは、相手構わず加虐すれば興奮するわけじゃない。だけど、加虐しているうちに入るスイッチのような、熾ってゆく炭のような、そういう何かがあるのも否定はできない。叩いてほしそうなマゾのことを、例え短時間でもいかに可愛いと思えるか、なのではないだろうか。

朝にシャワーを浴びていたら、ふと「ああ、あの人の凄いところ、素敵なところってこういうことなんだ」と閃いて、髪を乾かしながらその相手に閃いた全てを書き連ね、長文を送りつける。迷惑な話だが、なぜだか、いち早くにそれを伝えたかったのだ。文章での返信でなく声での返信だったところに、またしても感心をする。

誰だって、第三者からの高評価って嬉しいものだと思う。褒められて認められることは自分の輪郭をより深く濃くする。自認するとは他者がいないと成り立たないのだという。そしておそらく、その「認めてくれる人」が、自分がより好意なり尊敬の念だったりを持っている人であれば、もっとずっと嬉しくなるものなんじゃないかな。

傷ついたと口さがない時ほど、過去を振り返る。傷ついた分だけきっと、傷つけている。自分がいま悲しいのは過去の当然の報いなのだと。きっとずっと、傷つけてきたのだろう。その痛みを今、自分が負っているだけなのだ。だから傷ついたって思ってる時ほど、相手のことを考える。自分の過去を鑑みる。落胆し、復習し、教訓とする。同じことは繰り返したくない。

腰椎を痛めて30年は経過している。将来は車椅子生活だと思う。不自由がさらに不自由になる前に、やりたいことはやってしまいたい、という気持ちが強いのは、こういうことかなと思ったりもする。どうしてそんなに生き急いでいるのと20代の頃によく周りに言われたが、そういうことだったんだろうな。だけど、自分はきっと長命なのだとも思っている。うんざりするくらい生きて、子孫に「そろそろ向こう側への仕度をしてくださいね」と言われるだろう。憎まれっ子は世に憚るのだ。
車椅子生活になってもSMをしたいと言ってたらどうしよう。そうであってほしい。

Sだから偉そう、と思われるのはどうしてだか嫌だし、Sだから全てのリードをする、とも思っていないし、そもそも自分がSだと思わないし、この際なのでドミナントと名乗るのもやめたい。なんと名乗っても、別にいい。それはその人が自分につけたい名前なだけだから。ただしカテゴライズすることは自認を深めると思う。「偉そうにしたくないだけ」と言いながらぞんざいに足を組む。矛盾した、ふてぶてしさ。

どれだけ近くにいても分かり合えないことはある。親子でも、親族でも、恋人でも、長く過ごした夫婦でも、兄弟でも、親友でも。エスパーになりたいと言ったきみの気持ちがわかる時もある。だけど、相手の気持ちがわからないからこそ、言葉や態度や時に物を使って、時に相手の目を見て、会って触れて、場合によっては濡れた夜を過ごして、或いは親密に話し合い開胸するかの如く本心を見せて、そうやって伝えることの意味があるのかもしれない、とも思う。

メッセージリングを探している。こんなことがあなたへの何かの表現になるのだろうかとも、思いながら。

そちらの空は晴れてますか。こちらは今から、空を抱きしめます。

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